コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 霊的行動2018. 6.19

多くの普通の日本人にとってあらためて霊的行動と呼ばなくてもそれらの行動群はとても身近な行為で、四季を通じて自然に行われているようだ。
まずお正月。
「初詣」と称する神社参り。
地元の神社の神殿に向かって賽銭を投げ、柏手を打ち、手を合わせる・・・極めて自然な行動だ。
キリスト教徒やイスラム教徒だとクリスマスに教会に行ってお祈りをする・・・と言うような行動を多くの人間達はいくらか義務的ではあるもののするようである。
大昔から・・・。

日本人の家には仏壇があり、神棚がある。
それらにはお花や水やお供え物があり、中には遺影も飾ってある。
筆者の祖父の話だと仏壇の無い家は必ず潰れるそうで、実際に買収した医院は2件共に仏壇は無かった。
宗教がハッキリしない、正しい宗教でない、墓がないなどの状態であると何かの偶然で一時は繁栄しても絶家(家筋が絶えてしまう)するのは「世の倣い」、必定であるようだ。
イタリア映画の巨匠ルキノヴィスコンティの名画「山猫」では裕福な大地主貴族の家内で仏壇のような祭壇があり家族一同で祈りを捧げるシーンが出てくる。
筆者の観察ではこのような祭壇詣りは神社詣り墓参りにそのご利益において遠く及ばない。不思議である。

お墓の重要性については語り尽せないくらい多くの事例があるが、ここではただとりあえず極めて「重要である」とだけ書いておこう。
親と子、夫と妻、この縦横の二筋で構成される家族というカタチも時間的、空間的に伸長・拡大していくと「人類」が鮮明に見えてくる。

時間を軸に人間の存在を突き詰めていくと、その過去には親がいて先祖がいる。
また未来においては子供がいて子孫がある。
少なくとも一個の人間をただ単に時間的に分析してみてもそれが出現していなかった時、即ち母親の胎内に宿ってもいなかった時にどこに存在したかというと、これは魂の問題から見ると諸説あるが生物的な存在としてはハッキリ言って「無」だ。
ただし、これ(人間の存在)を霊的に捉えると過去には御先祖というものがある。
勿論、未来には子孫だ。
それで一族にとって霊的な一大モニュメントとしてお墓があるのだ。
これは、ご先祖は元より現在生存している人々にとってもその子供、子孫にとっても極めて重要な建立物であるのにこれらの霊的な事柄について考えの浅い人間が愚かにも風葬とか自然葬とか称して自らの遺骨を海にまいたり、川に流したり、風にさらしたりする。
全くもってエゴイスト極まりない・・・ということに気づいていないように見える。
生きている人間はすべて未来に対して責任を持つ筈なのだ。
これは子供がいるとかいないとかの問題ではない。
あらゆる生物には遺伝子があって連綿と引き継がれてゆくものであるけれど、人間の場合、それとは別にこの霊的な行動が自然にか或いは何かしらの天の意図か不明であるが備わっているようである。

霊的行動をおろそかにする人間は先祖からの守護が弱くなり病気や事故や犯罪、早逝という問題が生じる。
実際に刑務所に行く人への長年のインタビューでは90%以上の人が「墓参りを一度もしたことがない」という答えが返ってくる。
この事実は先祖の守りの弱いことの証ではあるまいか。

繰り返し述べて来たように所謂ヨーロッパ、北アメリカを中心とした先進諸国の人々は皆、お墓参りが大好きだ。

1987年のジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスで見事に、所謂ダブル優勝をしたアイルランドの自転車競技の英雄、ステファン・ロシュのファンなのであるが、何故かこの選手の出場したツール・ド・フランスのDVDを所有していて、この中で52才のアラン・ドロンがフランスのド・ゴール大統領の墓参りをするシーンが出てくる。
その身分からすると比較的小ぶりな普通の墓石に献花するシーンを購入当時は不思議な心持ちで視聴したものだ。

近年のオバマ大統領の広島訪問でさえ厳粛で壮麗な墓参と捉えられないこともない。
そういう霊的な催し事は世界中にあって、年の瀬のクリスマスもその代表的な例である。
死者にとっても生者にとっても、はたまた子孫にとっても・・・。
それは整然と受け継がれ「家」にとっては家系図となり世界的・国家的には歴史となり、カタチとしては墓や記念堂や石碑や銅像として残されていく。
また国家レベルから家のレベル、個人のレベルでもあらゆる芸術、文化、伝統行事、習慣、シキタリ、ナラワシなど人間の行動の定型化されたもので、霊的でないことの方が想像以上に少ないことに気づかされる。それらの殆どが霊的行動と言っても過言ではない。

こうして考えてくると人間が純粋な意味で霊的存在ということが分かる。
昭和60年に公開された五社英雄監督の「薄化粧」では緒形拳演じる妻子を殺した殺人犯が逃走しながら小さな仏壇を持ち歩いていて、それを焼き捨ててしまった後に警察に捕まるという物語がある。
その仏像を焼くシーンに犯人の終末を象徴的に見るワケであるけれど、多くの普通に生きている人間でもそのような霊的行動と現実の出来事に確かな関連性を見出さずにはおられない。

我が血族においてですら他家から嫁してきた母がご先祖の草むれた忘墓を見つけ出し、長男息子(筆者)に新しく建立させ、それを定期的に参らせる、参るという典型的な霊的行動を通して没落しかけた「家」を見事によみがえらせ、少しく隆盛させたという点で身内では「偉大な人」という呼称をほしいままにしている。

今年平成30年6月30日は亡父の40年目の命日だ。死後40年。ついでに今風に表現すると生誕90年となる。現代人の健康レベルだと生きていても全然おかしくない年齢である。亡母が死後14年。抱き合わせて7月1日の日曜日に法事をすることになった。全くたまたまである。別にあらためて計算した訳ではない。これまたいかにも不思議な展開だ。霊的行事の定形が近日にあるというのも何かの因縁であろうか。

ありがとうございました
M田朋玖



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