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■ 修理 | 2018. 6. 7 |
以前から書いているように筆者は外車には乗らない。 長く乗っていると故障が必ず出る。 時間が来たら壊れるようにつくってあるのだ。 恐らく。 そういうコトを書いてある本があった。 間違いないのは故障をすると修理に出すことになる。 外国のクルマだと修理に時間がかかるしお金もかかる。 人生で大事なモノが2種類(お金と時間)も失われる。 特に時間は大切で、たとえば修理に出ている時間が1ケ月とかの年月だったりするとそのクルマは所有されていないのと同じになる。 もっとこの問題を突き詰めると、たとえば半年間修理に入っているクルマがあるとすると全く修理が不要のクルマと比べると6ケ月間の時間の喪失、つまりカーライフの喪失ということになる。 このあたりのセンスが理解できない人が職人気質丸出しでクルマを完璧に「仕上げよう」となさって物凄く腹立たしい思いをする時がある。 個人的にザッと修理してできるだけ早く納車して欲しいと考えている。 新車の納車に3ケ月と半年中には1年なんていう商売を平気でやっている自動車販売店があるが「時間」というモノをどのように考えておられるのであろうか。 一度じっくり聴いてみたい。 販売店だけではなく購入者にも。 物品というのは所有され、使用されて初めてその価値を発揮する。 人間なら色々な事情があって頻繁に「逢えない」ということがあるかも知れないが、背景を顧みると即座に感情的になることはあるまいがクルマなどの物品などの場合「待たされる」というのは「ゆるせない」 コンビニエンスストアというビジネスモデルが今現在やたらに隆盛して我が物顔で都会や田舎でできるのも「スピード」であることに他ならない。 とにかく「早い」というのが売りなのである。 筆者の年令になると人生で最も大事なのは健康と時間だと考えているので、どんな事柄でも修理とか納品とかに時間がかかるのは全くもって不愉快に思える。 ついでに並んでメシを食うなんて絶対にありえない。 今の日本で・・・。 悠長ということがイヤなのが物品の購入と修理である・・・ということにさいきんあらためて気がついた。 所有と使用という物品の本来持っている使命を考えると当然の思考の帰結と思うのであるけれど、そうは思っていない人々が結構おられて面倒臭い。 何しろ説明にも時間がかかるので、とにかく「早く」とせかすと単なる「せっかちな人間」と思われてイヤだから黙っているが結構内心ではイライラしている。 最近弟から買い受けた自動車の修理を頼んだら何と半月あまりかかってしまった。 つまり購入した状態、即ち「所有し使用できる」状態になっていない。 古い外国車で修理しながら乗っておられる方々は修理そのものとか「手をかける」ことそのものが楽しみらしいが、筆者の場合、人も物も時間も人生も「使ってナンボ」みたいな考え方を持っているので修理や手入れという行為は大変結構なこととは思うが、それが長期にわたるというのが耐えられないので健康管理と共に物品やスケジュールの時間管理には結構ウルサクテ余計な予定、付き合い、会合、集会はできる限り差し控えている。 自由時間の長さこそ「人生の喜びの長さ」という思想なので余暇を団体行動に捧げるというのは個人的にバイクツーリング以外にはあり得ない。 もっと若い頃なら鍛錬という意味合いもあるだろうが・・・。 小(家族という団体)、中高(寮生活という団体)、結婚(家族・・・)。 この年でもう逆戻りはしたくない。 精神的、時間的、空間的な自由の為には敢えて「孤独」を選択するようにしている。 結果的に付き合いの減少、友人の少なさ、人脈の薄弱さなどが生じるが人生と仕事、健康と生命など思慮するとどちらが重要かハッキリしているし、優先順位を明瞭に整理して付けているので日常の行動、選択において無駄な「迷い」がかなりなくて便利だ。 また心の修理も気分転換に旅行やスポーツなども良いが「薬」は即効してこれまたやたらに便利だ。 比較的に精神の元気な人の場合、ベンゾジアゼピン系の精神安定剤や睡眠薬は極めて有難い良い薬だ。 大学時代、最も緊張する場面である卒業試験、国家試験の前には友人の勧め、アイデアもあってバランスという商品名の軽いトランキライザーを適当に服用していたら落ち着いて勉強できた為か成績もうなぎ上りで上位成績者になり試験も一発合格した。 まさに精神安定薬サマサマだ。 これらの優先順位とか物事を整理して単純化して取り組むというのも高校・大学の同級生の非常にアタマの良い友人たちに教えてもらったことである。 そういう意味では幾分壊れかけている自分のアタマを修理しながら使うのに読書と思索と瞑想と同時に薬物というアイデアも心の修理、メンテナンスにとてもユーティリティーが高い。 大学時代に最も影響を与えてくれたとてもハンサムな精神科医をネットで調べてみたら「名医」と評判であった。 それを知った時の筆者の「喜び」は何とも表現し難いモノで、大学の友人や後輩たちがどこぞの大学の教授になったりしてテレビに出たりするよりも嬉しかった。 この友人の勉強スタイルを今でも真似をしているのが、まず本を削ぎ落すという作業で、ハードカバーだと固い外側の表紙を切り取るとか余計な帯とかを捨て去って必要な部分だけ持ち歩くというものだ。 元経団連の会長だった土光敏夫氏もしていたそうである。 これは修理というより簡素化というモノに近い。 これは時効だと思うので初めて明かす事であるが、国家試験の選択科目の「外傷学」と「麻酔科」は思いきって「捨てた」即ち全く勉強しなかった。合格のための戦略である。このようなアイデアも件の精神科医、友人からいただいた作戦である。 やっぱりアタマのいい連中の考えることは違う。学生時代はそういう同級生が多くてとても勉強になったし今でもすごく感謝をしている。 そもそも試験に合格するということと実務は違う。法律と道徳が異なるように。同じように実臨床と医学や薬情も違う。これら原則と実態を同視混同している人がかなりおられて、ときどき無自覚に世の中を混乱させ周囲の人々を苦しめている。 ありがとうございました 浜田朋玖 |