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■ 洗車 | 2018. 6. 6 |
自分のクルマを自分の手で洗うというのは楽しい。 洗ってしまうと心がスッキリとする。 若い頃は時々していたが、医者になってからは記憶する限りしたことはない。 いつも洗車機に入れるか「入れて貰う」ようにしている。 それは或る出来事がキッカケになっている。 まだ開業したての頃(20代後半)のことである。 割と外来も暇で天気の良い或る日の午後、自院に勤務しているナースが駐車場で“自分”のクルマを洗っている。 その姿があまりに美しくなくて、もし恋人だったら1000年の恋も冷めてしまうかも知れないなどと思いながら何も言わずその行為を黙って眺めていた。 一般的に女性の掃除をする姿など元来とても美しいものの筈である。 しかしながらそれはその掃除をする「対象」を選ぶようである。 会社とか道路とか公共の物に対して行う時に神々しいくらいに美しく見えて、自分の家の時に家族的に幾分エロティックに美しくて、それに比べて公共の場での自分のクルマの洗車など、こと私物については全く違うということをまざまざと確認した次第である。 それは率直に言って醜い。 今でもその女性の顔と行動がありありと目に浮かべられる。 それくらい嫌悪感を憶えたものだ。 当時はスタッフの教育など全然していなかったので色々なマナーとか接遇とか、とにかくサービス業である医療機関としての態をなしていなかったようである。 患者さんの目の前で平気で私語をする、腕組みをするなどトンデモナイ。 看護婦にあるまじき行動やふるまいを見せられて点目してしまった。 そういう姿を我が身に当てはめて、自分は決して「自分のクルマを洗う」ということを人前でするまいと心に決めたワケである。 「病院の先生」が全くプライベートで・・・自宅ならイザ知らず自分の施設の駐車場で自分の自動車を洗うなどアリエヘンくらいカッコ悪い。 これは割りと知的な医者でない友人に語ったところ深く賛同してくれた。 以来どんな高級車であろうと新車だろうとみんなすべからく洗車機だ。 馴染みのガソリンスタンドにおいてですら何となく人目がはばかられて手洗い洗車をすることはしない。 GSのスタッフの方がおられてもしない。 人手をわずらわせるのがとにかく嫌なのである。 また自動車を大切にするのは大変結構であるが、それに大切な時間を費やすなどありえない。 このことに関連して自動車などの耐久消費財についての考え方を述べてみたい。 それらは基本的にその所持している人間と同じように老いていくべきで、その所有者よりも老いて朽ち果てず光り輝いていたら個人的に、精神的にマズいのである。 これは筆者の軽いトラウマにも根ざしている。 筆者の父親は25才の時に50才で脳出血のため急逝したのであるが、残された遺品として衣類と腕時計と自動車が残された。 そうして何故か遺影のように自動車を洗車している父の姿が写されている写真を発見して何故か衝撃を受けたのである。 そのクルマをしばらく乗りまわしていたのであるが、割りと簡単に真の意味で早々に朽ち果ててしまいアッという間に廃車になってしまった。 あんなにピカピカに父親が大切にして自ら洗ってまで愛着していた国産の新車がその思いも届かずこの世から消滅してしまった・・・と言う事実は、不思議に深く心に遺っていたようで、若い頃に或る決心をさせたようである。 この世には残せるモノと残せないモノがあると。 それは有形なものではない。 ダイヤモンドなど永遠性を有する特別な宝飾品の場合、その不変性、丈夫さにおいて或る意味腹立たしい物質ではあるけれ「残せる」ことは残せる。 けれども「心に残る」とか「生きてゆくのに役に立つ」という存在としては教育に優るモノはないし、知恵や知識や情報には遠く及ばないような気がする。 父親が遺してくれたんで最大のモノは「生き方」であった。 一方、母親は知恵や知識や情報を数多く残してくれた。 「墓を建立せよ」というのも母親の提案・・・というより厳命であったように記憶している。 医院の建て替えの前に総額400万円を投じてまず墓を移転させ、墓地を購入し、白い大理石の墓石を2基と水子供養の像を40平方メートルの砂地の上に建てたのである。 墓相を調べ正しく建てられたのであるが、隣の墓からするといくらか変わっている。 地面をコンクリートなどで塗り固めず、ただの砂地の地面なので草が生えてくる。 この生えてくる草が実りであるらしい。 「草刈り、草むしり」というのは収穫であるとのことだ。 全ての知識は母親が独学で本などから獲得された類のものばかりである。 それらの知識と生き方がどれほど筆者の人生の指針になったかワカラナイ。 父親より15年も長生きしてみてやはり年の功というのか、少しは父親より人間性はともかく少し知識や経験の量だけは増えた気がする。 両親共、昭和ヒトケタ。 両方の祖父母は明治生まれ。 曾祖父母は慶応とかになる。 これらの系図を辿れば自らの遺伝子の中に脈々と伝承されている。 「何か」があってそれは大袈裟に表現するなら日本人の祖先からの集合無意識と呼べるような人類にとって何かしら「よろしきもの」のような気がしている。 「洗車」という行為は実のところ本来「よろしきもの」である。 それが時と場合によっては「悪しきもの」になる得るのだ・・・と知ることが日本人の繊細な感性というもので、これはすべての日常生活の行為行動、仕事、ふるまいに言えることだ。 現代風に述べるとT.P.Oをたがえるといきなり反転してしまうものであるらしい。 「善行」の典型である墓掃除にしたって、それで怪我をしたり事故に遭ったりしている人を見ると何か「よろしくない」ことがその行為の陰に潜在しているのだ・・・多分。 全ての事柄において善と悪、美と醜、正と邪など対比できる類はこのような性質、即ち易性(変わりやすさ)を内包していると考えても良いと思える。 たとえばどんな悪の中にも善の蔭を垣間見ることが出来、どんな善にも悪の因を透見できる・・・という風に、たかが「洗車」ぐらいと思えるがそこに自らの美醜を含んだ人間性をまざまざと露わにしてみせることがあると知るべきであろう。 オソロシイことである。 人間性の錬磨と同時に細やかな配慮、思慮深さが求められる。 そうしてそれが細事(小さなささやかな事)ほど逆に露骨に表れやすいということに気付いておいた方が良い。 ありがとうございました M田朋玖 |