[戻る] |
■ 非行動主義 | 2018. 5.31 |
今年、平成30年の5月もあと4日を残して終わろうとしている。 殆んど雨の日の無い晴天のつづいた好地良い良季であったにもかかわらず、残念なことに好きなオートバイに乗り損なってしまった。 意外なほど仕事が多忙で夕方も休日も疲れていたせいかも知れず何となく結果的に乗りそびれてしまった。 青く美しく染まり行く初夏の美しい夕暮れの街並みを眺めていくらかメランコリックになり、ついついビールに手を伸ばしたしまった為かも知れない。 いずれにしても今初夏の5月はこと「バイク乗り」としては後悔しきりである。 さてお金について少し考えてみた時「稼ぐ」「ためる」「つかう」「残す」のお金に対する4つの処遇についてどれが一番骨が折れて、どれが一番楽かを考えた時、筆者は「ためる」が一番楽と考えた。 その結果としての多寡、多いか少ないかのハナシではない。 市井の普通の労働者にとって「稼ぐ」というのは大変な時間と労苦を要する場合が多い。 時給800円とか1000円とかの世界を生きている人々については言わずもがなだ。 それらの貴重なお金をパチンコや飲食など何も残らないし、殆んど何の学びにもならない、人に与えるでもない、結果として全く無益に使ってしまう・・・というのは個人的には全く考えられないが、多くの日本国民はそれらのような「お金の使い方」をなさっているように見える。 特に田舎町の大型パチンコ店は昼間からその駐車場は殆んど満車で驚嘆すべき盛況ぶりを目の当たりにするといつもそう考えてしまう。 一般的にこれらの人には当然ながらお金が残らない。 パチンコ店というのは金運を落とす「場所」だそうだ。 こと「稼ぐ」「使う」については一般的に「行動」「動き」を伴うので、実のところこれら2つの選択はどちらにしても「骨が折れる」ということになる。 一方で「ためる」「たまる」というのには原則「何もしなければ良い」 つまり動き、行動がない・・・たとえば何も飲食をせず家で寝てればよいのであるからよく考えてみれば簡単なことなのでる。 筆者の場合、若い時からその給与の多寡に関わらず稼いでも寝てるか本を読むか、せいぜいクルマかオートバイなので僅かだけれども、お金をいつも「持っていた」 特に飲食や交際にそれを使うことはなかった結果、少なくとも個人的にそれに「困る」というのは一度も無かったと記憶している。 つまりお金のかかることは何もしないのである。このライフスタイルは結構便利だ。 またお金を意識して「ためる」ということもなく、自然にしていて「たまる」のであるから有難い。 またそのことに何の苦痛もないので、どちらかというと優雅である。これは後述するがダイエットと考え方が同じだ。 「裕福になるのに何の苦労もない」という本があって、その内容も上記のようなモノであったと記憶している。 とにかくお金に困っている人は動きが多い。 あちこちによく出かける。 それもギャンブル(パチンコなど)と飲食と、その他どうでも良い遊興事だ。 ある日曜日など朝も昼も水だけで食べず発芽玄米のパック食1ケと野菜スープのみ。金額的にも時間的にも僅かだ。 オートバイも乗らなかったのでガソリン代も使わない。 この一日は努力して、節約して、意図してそうなっているのではなく特にやりたいこと、したいこと、出かけたい場所がないだけであった。 しかもそのような過ごし方を、面白くないとかツマラナイと思ったというワケでもない。 どちらかというと自分では素晴らしい、素敵な一日を過ごしたと考えている。 ある意味貧乏性でケチとも見えるが、仕事では数千万とから数億円くらいは動かしているので、この辺りの振幅の大きさはどんな思想に裏付けられているかというと成書にもある「小さく貯めて大きく使う」という言葉かも知れない。これらのセンスはそうではない質(たち)の人々にはナカナカ伝わらない。 1円も10億円も同じお金と言ってもピンと来ない人が多い。世界的な富裕者のJDロックフェラーは人に小額のコイン1枚を挨拶がわりにあげるのを習慣にしていたそうだが、この感覚かも知れない。 これは学習というより、遺伝ではないかと考えている。伝わる人と伝わらない人が居てその差は両親の職業に起因しているように見える。裕福とか貧しいとかもあるがもっと霊的な感性かなと見ている。 休みの日や非番の日に、テレビを観たり、ゲームをしたりするワケではなくベランダで空を眺めたり5月の心地良い風や光を味わったり、時々本を読んだり、コラムを書いたりするだけである。 そうしてその時間を心から満足し楽しんでいる。 こういう金銭のことでは「心の穏やかさ」「落ち着き」行動としても道教的な「無為自然」というのはゆとりのある生活への近道なのではないかと考えている。 ・・・けれども多くの人は、家族総出でイオンとかを中心としたショッピングモールに出かけたり、パチンコに行ったりしてその人生の大切な時間とお金を浪費しているように見える。そういう行動パターンの人が多いので、そんなことを考えているのはたぶん自分だけかも知れないなどと思ってしまう時もあるが上記した理由もあり多分遺伝ではないかと思う。身に染み付いていのだ。 それらの行動の人々が心豊かになって、ついでに裕福になれば良いのであるがそんな風には全然見えない。 そもそもそういう場所の駐車場で高級車というのをあまり見かけない。 「さもありなん」である。 お金持ちはそんなところには行かないのではないか。 有名百貨店などには時々稼ぎの多い人は行くかも知れない。 個人的には20年以上そういう百貨店に行ったことがない。 パチンコ店には30年間に1回だけ友達に誘われたが、それも5分くらい滞在しただけで後はクルマの中で本を読んで過ごした。 友だちが終わって出てくるまで・・・。 幸い本はいつも携帯している。 人生は本質的には生まれてから死ぬまでの時間である。 時間は稼ぐこともためることもできない。 「時間を稼ぐ」という言葉はあるにはある。 それは主に時間の決められたスポーツやゲームやそれに似た仕事において使用される言葉である。 時間はもう使う一方だ。 もっと言えば「過ぎる」という感じ。 最近は何をして過ごすかよりも何を感じて過ごすかという工夫をしている。 勿論「幸せ」や「喜び」を感じていたい。 それらの良い感じを、喚起するキーワードとして「楽しむ」とか「感謝する」(何でもありがたがる)を挙げたい。 そのためにはそう決意しさえすれば大概得られる。 いつでもどこでも。 『人生の時間は黙っていても冷徹に、厳かに過ぎてゆく。 人が何を思い、何を考え、何を感じて過ごすのかの方が、何を成したか、何をするのかよりも大切な気がする。』 幸福とは今ここで感じるものなのだ。 微かに流れるBGM。 涼やかな一陣の風。 人々の素敵な笑顔。などこの世界のあらゆる物や事や物語や景色からいくらでも幸福感を感じることができるものなのだけれども・・・。 ダイエットなどもこんな理屈で、結果を出すのは「行動」ではなくて「非行動」なのではないかと考えている。即ち「食べる」ではなく「食べない」。「運動する」ではなく「寝てる」など。筆者の実体験でも水だけ飲んでただ寝ていれば確実に痩せる。人生もダイエットも「何をするか」よりも「何をしないか」も大切な視点ではないかと考える。 武士道の基本的な思想は儒教を元とする「陽明学」「朱子学」であるらしい。これらの思想は「行動」に重きを置くとのことだ。一方同じ東洋思想の道教は「無為自然」を説く。つまり「何もしない」。そういうリーダーシップもある。前コラム「玄米菜食」の登場人物、佐々木ベジ氏はこの武士道と道教の組合せを巧みに説いておられた。所謂成功社長には中国の古典に精通した人が多いらしい。 人生の楽しみ方のひとつとして「非行動主義」なるものを提示してみた。また仕事の進め方にもこの考え方があるようだ。社長が働き過ぎる会社は儲かっていないことが多いらしい。 山本周五郎の小説で「寝ぼけ署長」という作品がある。これに出てくる署長さんは寝てばかりいて何もしないように見えて域内の事件も少なく平和に保っている。 この小説を読まれたら筆者言わんとすることがお分かり頂けるかも知れない。 ありがとうございました M田朋玖 |