コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 女尊男卑2018. 5.25

日本国の神様はご存知のとおり女神である。
「天照大御神」
皇室の祖神であり日本国民の総氏神とされる。
言うならばグレートマザーというワケだ。

相撲も神事であり「五穀豊穣」を祈願して各地の神社の境内で行われるお祭りのひとつの行事として始められたのが起源となっている。
・・・であるので土俵に女性を上げてはならないというシキタリになっている。
女性である神様の嫉妬を買わない為だとのことだ。
船に女性を乗せてはイケナイとか、山に女性はとか、とにかくいたるところに「女人禁制」があって女性にとっては理由を知らないと釈然としないかも知れない。中には怒る人もいるけれどもちゃんと筋はとおっているのである。
この言葉を逆にすると「女性は神様」であるということにもなる。

これは旅館や料亭で、その店の主人を女将さんと呼んだり、ただ普通の奥さんを「ウチのカミさん」(神様)などと呼称したりする。
上記のフレーズは米国のかつて日本でも大人気であった有名長寿ドラマ「刑事コロンボ」でも主人公の敏腕刑事が度々口にすることで日本でもさらに広く社会に浸透するようになった。

昔日の日本の風習では家計を任せられるのも普通女性であったが最近はどうか分からない。
社会情勢の変化で「共働き」が増えたせいかも知れず、夫婦間の信頼関係の減弱、親密度の希薄化にその因があるかも知れず欧米並みの個人主義の考え方によるものかも知れない。
因みにアメリカではお金は夫が全て握っていて、必要に応じて妻に生活費その他を渡すという形式が一般的であるらしい。
家族、家庭の運営においてお金の問題は極めて重要であるが、その全てをかつての妻たる者、即ち女性が掌握して司っていたというのは凄いことなのである。

昭和時代の日本人の美しい家族関係を描いて世界中で称賛された小津安二郎監督の映画ではそのあたりの日本人の関係性、ニュアンスを巧みに表現している。
表面的には夫にかしづく妻。
その実態は妻に上手に操られている夫。
同監督の作品は彼の人の作品に出演している原節子を中心とした女優さん達が、皆さん容姿も心根も繊細で美しく、観ていて深く心癒やされる。

愚コラムでも頻出する小田和正の「いつかどこかで」ではその辺の芸術性を小津監督以上に現代的に描いていて素晴らしい作品と思えるのだが・・・。
同作品も意中の女性を神様のように崇め立てる時任三郎演じる主人公の若い男の姿が純心でひたむきで率直で素朴で男ながら強い好感を持つし感動もする。

村上龍のエッセイで「全ての男は消耗品である」というのがある。
これはそのタイトルだけで人々に強く訴えかける力を持っており、考えてみれば「そうなのだ」。
女性や子供や高齢者にとって価値があるかどうか、有益な存在であるかどうかが「男の値打ち」を決めるという考え方で、これは世界中から非難を浴びて壊滅させられたIS(イスラミック・ステート)の男達がオスの本能のおもむくままに女性たちを蹂躙して恥を知らぬ・・・という禽獣以下の行動と比べると天と地ほどの差異を感じる。
即ち日本人の女神信仰、女性崇拝という感性がいかに男らしく人間らしい行動で、考え方がとても美しいかがよく分かる。
こういう文化の国で韓国の言う「従軍慰安婦問題」の真偽について思いをめぐらせるとどうしても強い疑念を感じてしまう。
デッチアゲではないだろうか・・・と。韓国においては文化的に儒教の影響か男尊女卑的で女性大統領のパク・クネ氏を徹底的に弾劾していたが、男女を問わず韓国人のこうした性向、即ちかつての自分達の選んだ元首をそれも女性を糾弾しつくすというのには強い恐怖と嫌悪感を感じる。
慰安婦の女性もその時代、その軍隊の師団長たとえば陸軍大佐くらい高い身分よりお金を稼いでいたという説もあったりして相当に優雅であった可能性もあるらしい。

男の美学というと少しく口説くなるが弱者として存すると思われている女性や子供や高齢者を「守る」ことをもって初めてその強さ、逞しさ、価値を発揮するのであり、そうでなかったらその男の自慢する美しい容姿も富も権力も体力も無価値と言って良いかも知れない。

逆に言うとそうでないタイプの男であっても・・・つまりそれ程美しくもない貧しく老い衰えても女性を崇め守ろうという意志を持ち行動できる立場にある人間、頼られるべき男、養うべき人々の多い男というものは自らを実に素晴らしく幸福な存在と知るべきだろう。

多くの立派な男性というものはそのような立場、境遇を心から楽しんでいる筈である。
またその一身をもって尽くすべき女性の存在というのは全ての男たち、人間にとってこれほど精神的に有難いものはないとも言える。
またその男性にとって幸いにして、嫁いで来てくれた女性という存在は、実のところお姫様のように寵愛し大切に遇するべきであるのに、これらの美意識を持たず女性を女中か下女、自らの愛玩物か所有物のように扱うなど実のところとてもモッタイナイ話であるのだ。

しかしながらそのようなサディスティックな男性を好む女性もおられて、少しヤヤコシイがそれらのタイプの女性は「心の病」を持っていることが多いのも事実であるし「幸福になりにくい」という特質も併せ持っていることがあるので本人も周囲も用心をしておいた方が良い。

それらの複雑怪奇な女性心理を考慮に入れても人間社会の成り立ちを深考してみると「女尊男卑」という考え方のほうがはるかに健全に思える。

表面的には異なるが紳士とレディーの国・イギリスや西部劇・フロンティアスピリットの時代のアメリカなども習慣的・文化的に「女性を大切にする」文化を持っている。
このあたりは男らしさのセンスが日本人の感性と良く合致しており、特に米国と日本国との場合、前者がキリスト教国であることも手伝っていて、両国の国際関係が親密であることの理由であるかも知れない。

大昔から言われているように欧米諸国から明治維新の頃、日本人女性や男性のたたずまいや男女の男尊女卑的ふるまいをもってして、また「女工哀史」や東北地方の貧農者における「娘の売買」などの実態も考慮しても本質的な精神構造として日本人全体に現代でも漂う匂い、空気として女性尊崇が根強く存するように見える。
またこれらは日本人の美風として捉えて良いかも知れない。
そのように見えない国々、多くのイスラム教国、キリスト教国のいくつかと他の諸々の宗教を持つ国々など女性に対する文化的、習慣的、風俗的に日本人の社会全体のふるまいや態度は上記した国々とはいくらか異なるよううに見える。

江戸時代には所謂「春をひさぐ女性」ですらも高い身分とされた「花魁」などという、諸外国から見れば極めて奇態な存在も、日本人の感性であると殆んど何の違和感もなく受け入れられているのであるから・・・。

ありがとうございました
M田朋玖



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