コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 栄枯盛衰2018. 4.20

ロシア帝国最後の皇帝、ニコライ2世は自国の「革命」の果てに愛する家族と共にウラル地方エカテリンブルクの館で処刑された。
1917年、享年50才。
この時点で300年もつづいたロマノフ王朝は滅亡しロマノフ家の血筋も完全に途絶えてしまった。

明治維新によって江戸幕府最後の将軍となった第15代徳川慶喜とは違う終わり方をしている。
即ち家筋は守られたし、日本国も近代国家への道を歩み、その後のいくつかの戦争を経験したもののとりあえず順調に発展を遂げている。

我が日本国の徳川慶喜は英君である一方で、失礼ながらニコライ2世については凡君の謗りを免れないだろう。
時代の流れに乗り切れず、世の中の変化も洞察できず自らの贅沢な生活と家族愛に生きたのであるから仕方がない。

何しろ身分だけでも皇帝なのであるからその身分の性質上、国家・国民のことを第一に考えるべきなのである。
我が国の明治天皇、大正天皇、昭和天皇と同じように。
自分の家族が第一なんて最も皇帝の呼称にそぐわない。
残念ながらそういう人物であったらしい。
これらの資質は最終的にその最も愛しんだ大切な家族の末路ですらその意図に反して凄惨な悲劇へと導いてしまったようだ。

現在の米国の大統領・トランプ氏にもいくらかこのニコライ2世のような傾向があって、身内や家族を依怙し、贔屓にし娘を大使にしたりして平然としている。
ただトランプ氏の場合、気弱とか軟弱とか言うことはなく、やたらに強気で厚顔無恥と言えるほどに狭量で知性が無いのに世界に対して堂々と自分の考えを主張しておられる。
まずその身分のはかなさ(任期が4年)を考えるとまずは殺されることはないだろう。

我々のような凡俗な庶民大衆ですら同じようなマチガイを犯すことがある。
特に男性の場合に仕事より家族やプライベートを大事にする人々のことである。
仕事を適当にして趣味や家族のことにかまけていられるのは一部のあまり身分の高くない公務員かそれらに準ずる大企業か安定した企業のサラリーマンくらいであろう。
実際にはそのような人は今では僅少かも知れない。
現在のご時世では。

人手不足と景気浮揚とそれに同調しない個人所得の伸び悩みなど労働の量は増えても暮らしが豊かにならない奇妙なシステムの中で生きている多くの一般労働者や零細な企業の現況を考慮すると益々「家族第一」「プライベート第一」なんて言っておられないのではないだろうか。

以前にも「愚コラム」で書いたがビジネスパパとマイホームパパは両立しない。
結果的にどちらが結果が良いかと考えた場合、本人と家族の為には、ビジネスパパに軍配が上がる。少なくとも筆者の観察では。
これは太古の昔からそうなっている。
男と女の分業だ。
男は狩りにでかけ(働きに出てお金を稼ぐ)、女は子供や家を守る(子供の教育、しつけ、子育て)、男は獲物(お金)を家族に無償で配る。
所謂マイホームパパと思しきニコライ2世もその身分に応じた「仕事」をしていれば悲劇は回避できたかも知れない。国民を慈しむという仕事を。
王の道つまり「王道」とは民の心に寄り添うということなのだ。我が国の天皇のように。

それはさておき人類や国家や世界や各個人の所属するそれぞれ血族、家族、部族、一族の栄枯盛衰をあらためて深考してみると、とても興味深い理屈が炙り出されてくる。
究極的には母と子、父と子、男と女の愛情問題、経済問題に準拠してくるということだ。そうして人間として、男や女、そして親としての振る舞いや態度がその子供、ひいては子孫に甚大な影響を与えるということを誰もが思い知る。

冒頭に述べたロマノフ家の最後の当主、ニコライ・アレクサンドラヴィチ・ロマノフの父親としての在り方と「国の父」皇帝としての在り方に充分な智恵や知識があれば、有能さや器量がありさえすれば帝国の滅亡はともかくロマノフ家は日本の徳川家のように存続できたかも知れない・・・というのはあまりに楽観的過ぎる見方であろうか。

ローマ帝国ですらも五賢帝の一人とされる哲学者でもあった名著「瞑想録」のマルクス・アウレリウスを最後に滅亡してしまったという歴史がある。
どんなに優れた人物であっても、その「実子に帝国を譲った」という事実をもって国を滅ぼしてしまったのであるから。
「親の子への関わり方」がその一家、一族、国家、人類の未来を決定づけてしまうというオソロシイ事実に気づかされ、慄然としてしまう。

もっと極言するなら母親がどんな風に子育てを行ったかが子々孫々の行末を決定づけ
る・・・ということらしい。
身近な例でも何世代にもわたって連綿とつづけられる家はその落ちぶれてゆく時代と興隆する「羽振りの良い」時代があるそうだ。それはその子供や孫が優れているか否か、またどちらの傾向になっているかが重要であるらしい。その個人や先祖の生き方や人間として、親や男や女としての在り方がその一族の栄枯盛衰を決定づけていることにあらためて気付かされる。

中国の古典「易経」に「積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃有り」とある。有名な言葉だ。
善行を積み重ねているとその子供や子孫に「必ず」慶び事があり、その逆なら余殃即ち悪い事が起こる・・・という意味である。
この一文も意味深で、子供の教育に熱心であるよりもその家の当主(普通は男性)を含め親たる人は「世の為、人の為」に善き行いをする事が、巧みな子育てと同じように大切であるし、家の永続的発展・成長に欠かせないと教えている。

また個人の人生史でも好調の時、不調の時、幸運の時、不運の時があるものだ。
東洋思想でも最高の学問とされる「易経」を頼りに食事に細心の注意を払い、世界や人類の為に小さくても、ささやかであっても善なることを毎日実行して行けば少なくとも罪悪や疾病、事故、災難で悩まされることが減らせるかも知れない。

1900年。
ロシア革命の端緒となったとされる「血の日曜日事件」。帝政ロシア、皇帝の軍人たちが「パンを求めて居城に集まった民衆」に銃を向け発砲し虐殺しておいて「只で済むワケ」はないだろう。
その血族の運命を変えてしまうほどの暴挙であるのに自覚がなかったというのは易的に見なくても「愚か」としか言いようがない。
日本の「帝」皇室、天皇においてはそんなことは1000年経っても万年経っても起こらない。
天皇にとって国民というのは「大御宝」「おおみたから」なのである。またキチンと帝王学も学んでおられる。因みに易学も帝王学だ。
民を思って詠んだ歌が数えきれないほど残っている明治天皇。
東北三陸沖の大地震大津波の際には私財を投げうって民を救けたとされる天皇。
済生会病院もその正式名称のとおり社会福祉法人恩賜財団「済生会」は明治天皇の勅語に由来する。

明治天皇とニコライ2世。
このたった11才違いの両帝王もその末路、子孫の繁栄に天と地ほどの差異がある。ついでに「日露戦争」でもその結末は皆さんご存知のとおりだ。
読者諸兄の賢考があれば両家系、血族の命運がいかようなカラクリで禍福を織りなして来たかを明々と諒解して貰えるに違いない。

追記
ロマノフ王朝はその当時、世界一裕福だったとされている。つまり世界一の大金持ちというわけである。そういう富と権力というモノがその所有者の生き方や度量によっては少しも役に立たないどころか極めて危険であるという良い例でもある。
なんと言っても50歳で殺されちゃたら、いくらお金持ちでも身分が高貴でも全く意味がないだろう。宝の持ち腐れもいいところだ。
追記2
余計なお世話かも知れないが、シリアのアサド大統領とか北朝鮮の金さまは大丈夫なんだろうか。

ありがとうございました
M田朋玖



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