コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 自己犠牲2018. 3.31

石原慎太郎と三島由紀夫の対談で「男らしさ」というテーマで語り合ったところ「自己犠牲」とすぐに呼応して共感し合ったそうである。
ご両人共やや右翼的で国粋主義的な考えの持ち主で「特攻隊」とか「武士道」とかに傾倒しておられる頃で、前者は青嵐会という政治会派の創設者であり後者はご存知のように昭和45年11月に東京市ヶ谷の自衛隊駐屯地の総監室で割腹して自決した。

国士とか奉国とか憂国とかの呼称がよく似合う三島由紀夫については恐らく陽明学・朱子学(武士道の元になる学問で言行一致を説く)の信奉者で自死を持って国民に覚醒を呼びかけたのであるが残念ながら失敗に終わったようである。

けれどもその成否に関わらず世界中に強烈なインパクトを与えたようで、ノーベル文学賞の候補にもなった天才作家の最期としては凄絶ながら春の桜花散るさまに似て見事としか言いようがない。

自分の生命を賭してまで日本国民に伝えたかったのは何なのか。
その内容については今でも本当のところは謎だ。
これは後世の人や周囲の人々がどのように解説しようと全く余人のはかり知らぬことなのである。

筆者の学んだ心理学では「自己犠牲」などモッテノホカ、トンデモナイ考え方でそれに基づいた行動など論外。
自愛とか他者愛とかを同視するどちらかというと健全な考え方を勧めるものであり、多くあまたのそれらの心理学の書物にもちゃんとそのように謳ってある。

・・・とは言え男の生きざまとしてカッコヨサを追求するとどうしても自己犠牲的にならざるを得ない。
愛する者の為に自分自身を犠牲にできない男、泥をかぶることができない男などその程度の如何に関わらず見苦しさの典型であることは純粋に「男の美学」として常識なのである。

イギリスの紳士道、ヨーロッパの主に貴族達に対して使われる言葉である「騎士道」とか「ノブレス・オブリージュ」の意味も単に裕福な人々の貧しい人々への義務などというものではなく、ちゃんと「体を張れる」もっと言うなら「戦争に行ける」ということを指すらしい。
代表的にはイギリスの貴族という人種は身分が高く裕福であるだけでなく知力・気力・体力・勇気(それは蛮勇とも呼べるレベルらしい)を持って多くの人を守れることをもってして人々の尊敬を集めていたらしく、このあたりの感覚は日本のお武家様、即ち武士道とも共通するものである。
それらの行動をせずお金だけ出していたのがユダヤ人らしく、そういう気質も手伝ってあまり尊敬を得られていないらしい。

このように「男の美学」を追求すると自然にしていて自己犠牲的にならざるを得ず、このことを整理してアタマに入れておくと男のチカラ即ち健康、経済力、知力、体力も使い道に迷うことはないだろう。

勿論、美学などといういくらか古風で自己満足的なものに全く興味の無い方もおられるので強く広くお勧めしている考え方、感性ではない。

美学という言葉そのものが死語になりつつあるようで世界中見回しても近頃はまず国家の上層位におられる方々からしてそんな気概、気風を感じさせる方にお目にかかったことがない。

権勢欲と蓄財とそれらにまつわる諸々の見苦しい欲望のカタマリと化しているのにそのことを特に愧じる風でもなく、どちらかというと逆に誇らしげだったりしてお笑いである。
その点、日本人にはそれらのタイプの人間が堂々と社会の上層でぬくぬくとして平気でおられることはなく、世界中のそれらの人々よりはるかに廉潔な感じがして好もしい。

もともと「恥の文化」を持っている国民性と武士道を中心とした男の美学が今でも明々と生きている社会なのではないだろうか。
私利私欲のカタマリでそれを恥じないということは教養のあるまっとうな日本人ではあり得ないのだ。
筆者の勘違いかも知れないが・・・。

中国映画など見ると多少見苦しくても「生きよ」というメッセージの内容の作品が多く日本映画だとこの辺がチョット違う印象だ。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」の言葉の意味は、死を勧めているワケではないらしい。
複雑な表現で恐縮だが「死んで生きよ」みたいな意味であるようだ。
生死を別にしても多くの立派な男たちは愛する人々・・・それは主に家族であろうし、企業内の身内の人々かも知れず、国家や国民のためかもしれず、毎日の労働ですら元々よく深考したら自己犠牲的なものであるのだ。

女性の出産育児など誰が考えても自己犠牲そのものではないか。
男が愛のために生きることを「美」と仮定するなら当然自己犠牲というカタチを取るものなのだ。
そのように明瞭明確に諒解して生きていればその人生も全体としてよくまとまり、結果的にも過程的にも美しいものになるのではないだろうか。

自己犠牲の程度によってはそれが最も価値の高い、本来最も愛おしむべき「生命」である場合もあり、かつて日本の敗戦間近に頻繁に行われた特攻作戦もその発案のいきさつや経緯に関わらず多くの若者たちがカタチとして国の為に散華して行ったのは事実なのだ。
そういう国民性を持つ民族や人種を世界中で今のところ発見することはできない。

「男の美学」とか「狭気」とかの言葉を具体化した言葉は「自己犠牲」しかないと考えている。いかがであろうか。

花びらの舞い散る、桜花爛漫のうららかな春の日に、心に浮かんだことを思いつくまま文章にしてみた。

ありがとうございました
M田朋玖



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