コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 富について2018. 3.20

仕事を終えて入浴し、座椅子にもたれてテレビを点けた。
いつものように何の興味も惹かないだけでなく、見たくもない顔と聞きたくない声など音と映像が不快だ。
たまたま手近に手頃な本もない。
久しぶりに音楽でも聴いてみようと来生たかおの10枚入りコレクションの中から適当に1枚取り出してCDデッキに挿入してプレイモードにした。

「アナザーストーリー」
アルバムのタイトルだ。
NHK‐BSに同名の番組があるが勿論全くの無関係。
久々に聴く彼の人の声はいつもながらとても耳心地が良い。
美しいメロディーが特長の歌は言葉よりメロディーで聴くので、来生たかおは30年来の心のトモダチだ。
不思議なことに全く倦きない。
他の歌手のは殆んど聞かない。
元「安全地帯」の玉置浩二は歌も声も上手で凄いと思うけれど、しばらく聴いているとやっぱり倦きる。
徳永英明にも凝ったけれど、すぐに倦きた。
今の若い人の歌は雑音にしか聞こえない。
これが年齢というものであろう。
仕方がない。

筆者の場合、来生たかおが人生の音楽生活の全てで、ビートルズだとかクラシックとかジャズとかの名曲とかにもたまに聴くけれども子供のように倦きずに聴けるのは彼の歌だけである。

それでそのときに選択した「アナザーストーリー」は当たりであった。
春の夕闇がガラス窓を美しい青色のタペストリーに変え、ゆっくりと濃度を深めている。
窓を開けるとまだいくらか冷ややかな風がカーテンを揺らし、灯りを点けていない暗い室内に吹き込む。

歌が窓外の青に溶け込むように流れ出てゆく。
あまりの心地良さに冷蔵庫に手を伸ばして缶ビールを取り出し、買って来たばかりの新しいビアグラスに慎重に注ぎいれた。
グラスの縁まで満たしたビールを持ち、またもや先日の朝につづきベランダに出た。

冷たい夜風が風呂上がりの火照った全身にやさしくふきわたる。
眼下に小さく広がる夜の街がまだ薄闇の美しいブルーに染まり、車の走行音と共にさまざまの生活音がワサワサと聴こえてくる。

人口3万5000人と言われているこの田舎町を少しずつ、知らず知らずのウチに深く愛するようになった。
決して高くはないなだらかな山の稜線に囲まれた殆んど円形に近い盆地。
その中に集い「身を寄せ合って」とは言えないほど近接してはいないけれど、人々はほどほどの良い距離を保って毎日を生きている。

日本中、イヤ世界中のどの町よりも美しく愛おしいと感じるのはつい最近のことだ。
築33年の鉄筋コンクリート造りの我が建物も建設当時は「打ちっぱなし」と言われる剥き出しの灰色でメズラシカッタが、今はあちこちで散見される。
その美しかった灰白色がいくらか黒ずみ、すすけている。
それでもデザインと家相の良さが手伝ってか入院患者さんの評判は結構良いようだ。
その3階の全フロアを自宅にしているので、当然広々としたベランダを持つそれはチョットしたお城のバルコニーを思わせる広さと形状の・・・を持っていて、そこに住まう我が身の幸福をあらためてしみじみと味わいながら夜風に吹かれて眺めるささやかな夜景とグラスの中に満ちているビールが心をとろかす。

薄曇りの為に空に星は無く、まだら模様の灰色雲は月光が透かしているのか淡く明るさを保ち、まるで巨大な青白い蛍光灯のようにいつまでも暗くならない。

ベランダのコンクリート製の手すりにグラスを置き、開いた窓から漏れてくる来生たかおを聴いてしばしの陶酔を味わった。

習慣的に夕食を取らないので当然晩酌というものをしないが、ビールをつまみなしで恐らく1ヶ月ぶりに夕方に飲んだ。

これで飲酒を伴う宴は終了だ。
後はゆっくり本を読むか寝るしかない。
この年になってクルマとオートバイとバスケを取ると、つまり飲酒をするとあらためて何もすることがないことに気づく。
食べるでもない、出かけるでもない。

本題。
世間の多くの人は富や豊かさを求め安楽や享楽や刺激を求めてあくせく働きまわっているように見える。
人によっては贅沢な暮らしというものもそれらの欲の対象だ。
それをよく深考しないで闇雲に富や財産、ついでに権力や「名を知られる」ことを好む人々も多い。
これはかつて若人に多かったけれども今はどうかワカラナイ。

数千億とか数兆円とかの富を持っている人が世界中には相対的に数は少ないけれども結構おられると聞く。
それらの人々はその富をいったい何に使われるのか知りたい。
またその富を得て本当に幸福なのかも知りたいと思う。
統計的には年収1000万から2000万の間に幸福度のピークがあり、それ以上だと逆に幸福度は落ちて来るそうである。
数10億の現金資産を持つ親類の顔ぶれを思い浮かべるとそれほど、即ち「とても幸福そう」には見えない。
眠れない、憂鬱、不安などあり会社や家庭内の不安、子供の教育についてや健康についての不安など一般のそれほど裕福でない人々と同じような悩みを抱えているようだ。

筆者の場合、富と名誉や地位も大したことはないが、毎日が充分に・・・というか物凄く幸福だ。
精神的な満足感が極めて高い。
殆ど何の不満も無い。
満ち足りている。
特に欲しい物もない。
したがって巨大な富も必要ないし、そういうものは逆に危険であるような気がする。
健康を害するとか人に狙われるとか。

そもそもそれを持っていたとして何に使うんだろう。
たとえば巨額の使い切れないほどのお金を持っていたとして、これと言って使い道がない。
誰かに、多くの人に配って歩くしかないと思える。
これは正直、一度はしてみたい。
結構楽しいかも知れない。
そういう意味では少しは欲しいとは思う。

富の分配という意味では極めて身内かせいぜい職員の人々くらいで、それらの人は労働の正当な対価なので喜びもそれ程深いモノではない。
世界中の貧しい人々に困窮した人々配ってしまったら一遍に無くなってしまうだろう筈の巨万の富も一ヶ所に蓄積され、素晴らしく未来的な、広く人類に貢献するような使い方ならばそれはそれで深い意義があるのだろう。
最も惨めなのは個人の贅沢な物品の購入にのみ使われた場合で、そんなことは普通のないのであるけれど、時々そのように見える人がいて余計なお世話であるが少しく同情してしまう。

人間の持つ幸福になる最良最善の手段として他の人間を幸福にする、またしようとして行動すること、またそれを自分の心の中で了解していることである・・・ことだそうだ。

人生の長さを考慮した時に使い切れない富を所有している人々がそれを何に使うのかと考えた時に、それらの人々の部類に入らない自分としては用途において「見当もつかない」。
個人的には先述したように「人に配る」しかないのではないかと思う。
一般庶民のように子孫に残そうとするのであろうか。
大昔からそれは愚かな行為とされているが・・・。
「お金のかからない楽しみ、ささやかな喜びを持っている人は幸福である」との一文があるが、この意味は本当に楽しいこと、幸せなことにお金は要らない・・・ということで、この言葉を若い時に知って筆者の精神をお金から自由にし、人生を幸福にしている。
実際にお金で悩んだことは記憶する限り60数年の人生でたった一回しかない。
それは究極的には自分の失敗なのであるが、加害者のいる詐欺事件のようなものだった。
それも奇跡的に逃れられて、かえすがえすも有難いことである。

富があろうとなかろうとそれがいかに巨大でも時間だけは全く平等で、時間が経てば全て終わってしまう・・・。
このことを正しく胆の底に銘じておくと富というもの、またその用途について深く悩むこと、或いはなにがしかの嫉妬心で苦しむことはあるまいと思うのだけれども・・・。

人生における最大級の富ははち切れんばかりの身心の健康とか、天空を駆けるほどのびのびとした、自由でしなやかな精神とかだと思えるが、そういう事柄に重きを置く人を世の中や世間一般に見かけることは殆どない。

ありがとうございました
M田朋玖



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