[戻る] |
■ 朝ビール | 2018. 2.19 |
2連休の初日の朝。 休日なのにめずらしく早朝に目覚めてしまった・・・と言ってもそれは午前6時頃で、窓の外は充分な明度を持ち、少しずつ青味が黄味に変化しつつあったがまだ春の「明るい陽光」というほどではない。 とりあえず起きて座椅子に頭をもたせて読書灯を頼りに手近の本・・・こういう場合、小説を読んでいると内容がタバコとかビールを楽しむ場面がやたらと出てくる・・・のでつい我慢できずに冷蔵庫から缶ビールを取り出しプルタブを引き上げた。 「プシューッ」何とも言えない心躍らせる妙なる音だ。 普通そのままアルミニウムの缶にかぶりつくのであるが今日は日曜日。 ゆっくりビール飲みを楽しもうと大きめのロングタンブラー・・・それはイギリスのパブかなんかで使われるタイプ・・・にゆっくりと注ぎ入れて、なみなみと満たしたその少し重めのグラスを持ってベランダに出た。 そこにはすでに早春の朝の太陽の光があふれていて、グラスに満ちた黄金色に輝くビールを明るい東の空にかざしながら少しずつ舐めるように味わった。 それはとても素晴らしいひとときで、まさに至福の瞬間。 世界は・・・人生は素晴らしい・・・と心から思えるほど心に残る時間であった。 朝日ビールというのはこんな感じでネーミングされたのかもなんて考えたりする。 それでも朝の飲酒は犠牲も多い。 それはバイクやクルマ、読書の妨げになる。 今時の飲酒運転など現代の最も身近な重大犯罪だ。 500mlのビールのアルコール分を体内から全排泄されるまで、正常な肝臓・腎臓を持っているなら6時間から8時間だそうである。 去年の免許更新の時に聴講した講習で確認済みである。 用心深く350mlのビールだけにしておけば午前中一寝入りした後、午後にはドライブもできる計算だ。 やれやれ酒を飲むということがかなり時間的、空間的に犠牲も大きいことなのだと気づかされる。 小指の骨折の為に「朝からバイク」が出来ないというのも或る意味問題なのだ。 元々、「酒好き」なのかも知れない。 若い頃アルコール依存症への恐怖から、特に父親の言わば「アルコール死」に近い急逝とそれにつづく母親の諄諄しい「焼酎飲み」の末路への警鐘と言うより「忌み嫌い」もあってか、それ(飲酒行動の習慣化)を避ける目的からもクルマやオートバイへの傾倒もあったように記憶し理解している。 アルコールさえ口にしなければ日常の行動範囲というのは結構広いものなのである。 せっかく年齢を重ねて手にした自由な時間も「酒」で台無しにしたらモッタイナイ。 人によっては只の「酒」で楽しかるべき人生を棒に振り失ってしまった例もある。 それらを了解の上で休日の朝に飲むビールには心ときめく「禁断」の香りと味わいがあるのだ。 これがおいしくない筈はない。 たったグラス一杯のビールを時間をかけてゆっくり味わう喜びには何ものにも代え難い愉楽があるのである。 黄白色の真円の朝日が知らぬ間に輝きを増し、青空の頂上をめざし青々とした山際から離れゆっくりと昇ってゆく。 明るくなり過ぎると逆にテンションは落ちて来る。 ほんのささやかな独りだけの「酒宴」を早々に切り上げ、再び床に就いて桃色の妄想に耽りながら惰眠をむさぼるべく全身の脱力と静かで深く長い呼吸の習得に取り組んだ。 「何もしない、何も考えない」 これが休息というものの究極のカタチだ。 それには材料と準備がいるものだ。 微量のアルコールというものが心とカラダの健康にヨロシキものであることは「酒は百薬の長」という言い古された言葉にも明言されている。 そのことを全身で確認し、意識しながらいつものように最近は「人生の時間」というものに考えをめぐらせる。 その有限性とその進み方の速度とに。 それは文字どおり光のように速く、瞬間の連続で一瞬もとどめようがなく実に残酷に冷厳に流れてゆく。 それは突き詰めると「無」なのである。 そのひとときを楽しむのに何の遠慮が要ろうか。 欲を楽しむ為に私欲を捨て去り、思考を楽しむ為に「考え」を手放し、感情を楽しむ為に全ての感情を無視して道教的な「坐忘」(全ての力を抜き全てを忘れ去るという心とカラダの作業)を通じて得られる快楽の世界が心におとずれるのを待ち、ただ受け取る。 「一杯のかけそば」ならぬ「一杯のビール」が与えてくれる喜びは或る意味無限であるのだ。 決して大袈裟でなく・・・。 ただしくれぐれも一杯に限る。 二杯目にはそれはおとずれないのだ。 残念ながら・・・。その上毎日ということもない。 ヤレヤレ。 ちなみにビールの銘柄はサントリーだ。熊本に工場があるし、上原浩治がボストンレッドソックスにいた時に飲んでいたのがこの銘柄のプレミアムモルツだった。 ありがとうございました M田朋玖 |