コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 或る日曜日の雑記帳2018. 1.27

或る冬の日の午後、熊本市内にある大型書店・ツタヤの南側出入口の脇にあるチョット雰囲気の良い喫茶室にいた。
大きな窓ガラス越しに厚いコートやダウンジャケットを纏った男女が通りを行き交っている。
時に半そでのポロシャツにジーンズという軽装の人を見かけるが、これは恐らくどこか近所の飲食店のスタッフであろう。
殆ど走るような速度で街路を横切って行く。
それらの人々の自然な流れを時々眺めながら買ったばかりの本を開いて読み始めた。
勿論コーヒーを頼み、窓に向かって扇型に設置された居心地の良い長椅子に一人で陣取って・・・。

乗ってきたクルマは近くの大型立体駐車場の中に納められている。
メガネ屋と行きつけのアパレルショップも眺めて巡ったが取り立てて買いたいという程の品には出逢わなかったので、とりあえず本でも買ってみるかと定番の本屋に立ち寄ったワケである。

少し西側に傾いた筈の冬の太陽が1月下旬とは言えうららかに春めいた柔らかな光の粒子を窓外にも店内にも降り注いでいた。
晴れた日の日曜日のドライブでも目的地はいつものように書店しかない。
「コーヒーショップと本」というのはとても相性が良いようで、ついでにタバコでも喫えばもっと気分は上がるんであろうけれど、今時は喫煙についてもその行動習慣は昔のアヘン吸引並みの禁制の嗜好品となってしまい、異物のように設置された喫煙コーナーか喫煙ボックスでしか堂々と楽しめなくなってしまったようだ。
現代の生活の一番の被迫害者が喫煙者なのではないだろうかと考える。
どこにいても白い蔑みの目で見られる。
「臭い」とか「キケン」とか言われて・・・。

1時間以上その店で読書と人間観察を楽しんだ後、駐車場から愛車を引き出ししずしずと家路についた。
板金塗装から無事に帰ってきた我がクルマ、レクサス600hもその黒く美しい塗装がよみがえり一見ピカピカの新車。
その乗り心地のトロケルような甘いウットリ感は相変わらず健在だ。
その愛する、幾分古びた国産の高級車を操って混雑した街路や国道をゆっくりと一般交通の流れに従って走っているといつものように何とも言えない幸福感を味わう。

早春の明るい陽光と乗り心地の良い自動車と多くのまっとうなドライバーの運転する車の車列がそうさせるのかと考える。
或いは自分自身の気分の良さや心地良い感覚の成せる結果か。
アウディとかベンツとかBMWとかのドイツ製の外車、大きいサイズのアメリカ車もその乗り心地は悪くはない。
米国車についてはその造り込みの粗雑さが目立つが、いずれの「外車」もその耐久性に問題がある。
芸能人を中心に外車の良さを吹聴する人がいるが、確かにフィーリングはとても良い。
彼らは何台も持っていて、多分距離を乗らないから「外車」に乗れるのである。
我々のような一般人は1台もしくはせいぜい2台のクルマを長い期間、長い距離を走るので耐久性とか燃費の問題は大きいのだ。
特にドライブ好きの筆者としてはそうそう簡単に壊れてしまっては困るし、しょっちゅう修理工場や販売店に出入りさせるのも面倒臭いし、時間も惜しい。
それに「外車」の「どうだ」とか「これみよがし」とか「威張った感じ」がイヤなのである。
裕福な人が多く住んでいる大都会の一角ならイザ知らず、どんどんさびれてきている小さな田舎町や田畑を通り抜ける県道、国道には似合わない。
農家の納屋や牛小屋や日本家屋の縁側にそれらのクルマを停めた時にどれほどのミスマッチか分からない。
醜悪とも言える。
見方によってはそのミスマッチが好もしいと思えないこともないけれど・・・。

そんなことを考えながら走っていると、いつの間にか家に着いてしまった。
良い感じの時クルマは「運転している」という感覚ではなくてクルマが「勝手に自分を運んでくれる」という感覚を味わう。
そういうワケで疲れたという運転後の疲労というものは殆んどない。
若い時(40代〜50代)にはクルマの運転は「あまり好きではない」というレベルまで落ちてしまい結構運転の疲れというものに苦しんだものであるがレクサスに乗り換えてからそれをあまり感じなくなった。
ありがたいことである。

帰って来て早速新しく買った本、ノルウェー人の作家、ジョー・ネスボの「その雪と血を」を読み始めた。
ドキドキするほど面白い。
文章も素晴らしい。
全世界で2800万部も売れたそうでレオナルド・ディカプリオの主演で映画化される予定であるそうだ。
こういう面白い本をサラッと読んでしまうのはモッタイナイ。
夜の最もくつろいでゆっくりとした時間にビールをチビチビ飲みながら2−3ページずつ、少しずつ読もうと考えている。
何しろ「最上の楽しみ」「至福の時間」なのであるから・・・。
そんな御馳走(面白い小説)など数多くあるワケではないし、こと小説についてはそれがどんなに面白くても読み終わってしまったら「終わり」なのである。
頑張って読みなおしてもあまり楽しめない。
これは多くのアクション映画にも言えることで、読了する、観終わるということの後に或る種の虚しさ、虚脱感をおぼえる。
これがいくらか哲学的な要素の濃い内容の本だとそれは起こらない。
「小説」とはそんなものかも知れない。
いくら優れた小説でも人々の「時間の消費欲」(即ちヒマつぶし)に応えるもので、それはおいしい食物と同じような物品なのではないだろうか。
心の栄養、骨や血肉になるような書物というのはやはり小説ではないような気がする。
小説の描く「物語」が人々に感動を与える作品は少し違うのかも知れないが。

魂に響くとか骨肉になる本というのはそれほど多くはなく、哲学的(人間の生き方を問うもの)な要素を求めるならどうしてもいくらか宗教的色合いを帯びた類になるような気がする。
「宗教」というと近頃ではイスラム過激派とかユダヤ教とかオウム真理教とか少なくとも多くの日本人には良いイメージはないが、生き物の中で人間だけが霊とか宗教とかの観念を持つのだ。
精神的に深まり、高まっていくとどうしても霊的・魂的・神的になっていくもののようである。
宗教を突き詰めて深考し純化した場合、そこには全く邪悪なものはない筈だ。
人間の加工したエセ宗教がどこまでも邪悪で低劣なのである。

そういうわけで結局は本読みというと、時間的にそのジャンルは小説よりも誰それの書いた何がしかの「理屈」とか「論」になってしまう。塩野七海さんが終わったのでまた本屋に漁りに行かなければならない。健康本も食傷した。しばらく休憩だ。
日曜日にクルマに乗るとどうしても読書の時間は増える。けれどもどこかワンパターンで時々大丈夫かな、なんて気になる。やれやれ。

ありがとうございました
M田朋玖



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