コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 美人の法則2018. 1.24

「美しい花には棘がある」の言葉どおり美人、特に女性の場合、その「取り扱い」にはかなりの用心がいる。
気軽に近づくと火傷を負ったり大怪我をしたりする。
当然ながら見た目が良いから感じは良い。
第一印象も概ね良好である。
これらの外見に騙されてはイケナイ。
その内面、心の底には鋭い刃物のような凶器を秘めている
・・・深い悲しみや痛みともに・・・。

外見の美しい人への長年のインタビューの結果、以下のような特徴が見られるのでランダムに列記してみた。
➀幼児期〜少女期に虐待か、親や他者からの暴力を受けている。
A親との折り合い、相性が悪い。
B蝶よ花よと親から甘やかされてはいない。
C潜在的に男性に対して憎しみと愛着の両方を持っている。
D男性に対して潜在的に復讐心がある。
E余程の玉の輿でもないかぎり普通あまり幸福ではない。
F玉の輿に乗ったからと言って幸福とは限らない。結果的に美しい容姿を早々と失うことがある。
Gあまり容姿の良くない男性で自分(美人)のことを深く愛してくれる人がいると救われることがあるが、油断しているとその状態を破壊しようとする自らの心の反応に負けてしまうことがある。
H自殺未遂とか自傷行為をよく行う。
Iどちらかというと裕福な家庭よりも貧しい家で育った。
だいたい上記のような理由から結果的に自分(美人)も相手(男性)も不幸にしてしまうことが多いが、容姿が普通か「ちょっと下」のレベルの女性が最も幸福な感じがする。

幸か不幸か生来的に備わった「美」の持ち主にはどんな存在価値があるか分からないが、少なくともその人生の一時期に多くの男性に夢を与えた後にその役割を終え、あっという間にその幕を閉じるようだ。
それでも一生涯を通じて美しいままの女性や男性は稀であるが存在するようだ。
それは美に対する方向性をマチガエテいないからであって、恐らくその方向に向けての努力を怠らなかった結果だろうと思える。

さて、どうして美人がつくられるかというと多くの人の想像に反して次のような心理的メカニズムによってそれが起こる。
それは果てしなく虐待に近い「鍛錬」によってである。
所謂「丹精込めて」とか「手塩にかけて」とかでつくられるワケではない。
それは故意か偶然かによって生じた激しい競争とか戦いとか練磨によって生じるものであるようだ。

ご存知のように日本は江戸時代の鎖国と平和300年によって日本人の美と体格の劣化が生じた。
競争とか戦いのない安寧な時代は日本人の身長を縮ませ、容姿を衰えさせたようだ。
戦国時代には平均身長175cmほどであった男性の体格を150cm台まで低下させ、鼻梁を陥凹させ、男女を幼い童顔にし、世界基準の人間の「美」を衰えさせた。
人間の肉体の美、容姿の美を「ギリシャ彫刻」に基準をおくと背が低く鼻梁も低く童顔の江戸時代の日本人の特徴がいかに基準に遠いか分かる。

戦いと競争を促す悪環境というものが人間や動物の「美」の醸成にいかに大事か分かる。
・・・であるので背が高くスラリとした西欧的な美人というものはその幼児期に何かしら心理的、環境的に何らかの厳しさに晒された可能性があるのだ。
暴力や虐待などの激しい、厳しい鍛錬が身長を伸ばし、鼻梁を高め、痩せさせ、栄養状態を悪化させ、結果的に生命維持上のギリギリのところで「美」を生じさせる。
少なくとも生きていくために不特定多数の人間に「愛される」必要が生じていて、その為に生命がけで「美しくなった」と考えられる。
その人間にとって或る時期「美しくあること」が絶対的に必要であったのだ。

人間の健康長寿の為には肉体的にも心理的にも或る程度の負荷が要るもので、特に幼児期、少年少女期にそれはやや強めに与えられることが望ましい・・・少なくとも美と健康の為に・・・。

こういう理屈を知っていると自分や子供を「甘やかす」ことが結果的にとても有害であることが分かる。
「人に好かれなくても良い」とか「嫌われる勇気」と言った類の書物が売れているが、これらの本は幼少時期に人に「好かれよう」とか「良く思われたい」とか「人に愛されたい」と強く願望して疲れ果てている人々に向けては好もしいが、最初から即ち幼児期、少年期、思春期に身につけるべき考えとしては「ゆるく」て好もしくない。少なくとも美人にはなれない。

子供というものは本能的に親に愛されようと頑張るものなのである。
そしてその「頑張り」を勉学やスポーツや多くの芸事や才能の開花の為に使わせようと上手に仕向けるのが賢い親というものだ。

結論的に述べるならば美人とは他力的に生じさせられた幼児期から親を含め周囲の人々に強く「好かれよう」「愛されよう」という無意識的な激しい努力の賜物なのであると考えられる。
無条件の無償の愛という安全圏の中にドップリ浸っているような人間にはとうてい「美」は手に入らない。
苦しみ、もがき、煩悶し、苦悩し、耐え忍び、それでも「愛されたい」と頑張った者のみが手にする状態が「美人」という結果なのだ。
シンデレラという童話の物語もこれの良い参考になる。
アランドロンという稀代の美男俳優の生い立ちなども同様だ。
「美人」を「成功」に置き換えて良いかも知れない。
「愛されたい」を「認められたい」に置き換えて・・・。

成人してからもこれらの苦しみを抱え、耐え忍んでいる人はだんだんと次第に美しくなっていく。
自分を磨く、鍛えるといった少なくとも負荷を与えることを日常的にしている人は何かしらの魅力と美というものが備わるような気がする。
「嫌われる勇気」という売れた書物の基礎になっているアドラー心理学とか交流分析に基づいた子育て法には大きな盲点・弱点があって、それは上記したように一見心理的にネガティブな出来事や心理的問題が人をして「美しくさせる」作用があり、人生全体の結果にとっても不幸であるとは限らないということをお伝えしたかったのである。昔の子育ての権威であったスポック博士の論も子供を優しい愛を持って抱きしめてあげましょうというのがあるが、これも程度があってかなり加減して与えなければイケナイそうである。

これが美人の「出来方」であり「末路」である。
断っておくが論点を「幸福」に置いているワケではない。それを「美」に置いているということを念頭において読んでいただくと有難い。何故ならそれら「美」と「幸福」は往々にして相反するからである。

「掃き溜めに鶴」とか「汚泥に咲く美しい蓮の花」とはこう言ったメカニズムを絵画的に表した言葉ではないだろうか。

ありがとうございました
M田朋玖



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