コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 見てただけ2018. 1.20

アカデミー賞映画「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」は名作である。
「ショーシャンクの空に」と同様に観賞すると必ず何らかの勇気を貰える。

特に人生を、子供の教育を真剣に考えている人にとってはとても有益な「教材」になる。
物語は学校での少年達の悪戯心で引き起こされたチョットした事件とその顛末を描いてある。
少年の心、大人達のふるまい、対応にそれぞれの人間性が現れていて何回観ても感動するし勉強になる。
クライマックスはアル・パチーノ扮するフランク・スレード中佐の学校の講堂での名スピーチだ。
崇高で高潔な人間、素晴らしいリーダーとはいかなるものかを、明瞭・明確に言い切っていてとても清々しい。
それに少年達の純粋な心が見事に同調し大歓声と拍手喝采が巻き起こるところが人間の善心、知的さと徳性が顕現されて心から安心する。
人間とは素晴らしいものだからという心境に浸れる。
とにかく素晴らしい作品だ。

ところでこの映画と似たような事件を或る人から聞いてこれを書いている。
舞台は公立中学校。
この世代は所謂ギャングエイジだ。
特に男の子はつるんで悪戯、悪さをして楽しむということをするという習性がある。

発端は学校の実験室の鍵穴を使って「ピッキング」というドロボーの技術を獲得か習得かしらないが少年らしい好奇心からそれを行い結果的にそのドアの鍵自体を壊してしまったことから始まる。
それはいつもの3人組で、主犯格は一人。
他の二人は「見ていた」だけだそうだ。
このことが学校にバレていきなり「弁償しろ」ということになったらしい。
主犯格の少年の父親は格闘家でとても暴力的であるということでその少年を庇う為に「見ていた」少年の一人が主犯であると嘘の主張をして弁償も3等分してそれぞれの親が払うことになったようだ。

・・・ところがである。
親同士の話し合いで一人の親が主犯格以外の子供は「見ていた」だけであるから弁償させられるのは「納得できない」と主張し始めたから事態は突然ヤヤコシクなった。
ご存知ない方もおられるかと思うので念の為にお伝えしておくが、社会的にも法律的にも、さらには道徳的にも「見てただけ」という立場は通用しない。
たとえば強姦とか強盗とか殺人とかの重大犯罪でなくても、こと犯罪においては黙って見ているというのは共犯と見做される。
「止めさせる」か「その場を離れる」か警察かそれに代わる監督署に通報するかしなければならない。
そうでないと「共犯」の汚名は免れない。
さらに、この仲間における上記の共犯でない立場を選択することは結構な勇気を要する。
仲間内における「裏切り者」の汚名を着させられるだけでなく、復讐されるとか逆恨みされるとか仲間ハズレとかを覚悟しなければならない。

それらの配慮とか仲間ウチへの優しさからかは不明であるが「罪を被った少年」は男同士の仁義を守ったワケであるから或る面から見ると「男を上げた」「立派だった」と見ることもできる。
実際にこの少年は女の子にも人気のある美しい容姿と優しい性格の持ち主であるらしい。
ドラマでも現実でも「主人公」にふさわしい少年であるようだ。
それにくらべ、学校の先生や保護者を含め、大人達の対応はそろいもそろって「大人」らしくない行動、即ち無責任で無神経で配慮がなく軽いイラダチを感じる。

まず校長だ。
少年達の起こした事件であっても学校内のことであるから監督責任というものがある筈である。
それは担任にも副担任にもある。
「壊したから弁償」という簡単な問題でもないだろう。世の中には弁償出来ないモノがゴマンとある。
それなのに弁償については「親同士で話し合ってください」とこの件を「丸投げした」らしいので、これは無責任と言われても仕方がない。
こういうレベルというのは実際に中学や高校の先生方との話し合いでも、映画「セント・オブ・ウーマン」でも確認済みなので特に驚きはしないが、学校の先生も警察官も医者もまずは人間であるのだということを思い知らされる。
子供たちは大人の鏡なのである。
たとえ子供の事件であっても何らかの大きな学びを得ることは出来るものだ。
そういうことを深考するためにも前記した映画はとても良い教材になる。
その時その場所での判断、選択、決断というものにはその人物の総合的な人間性、生き方、考え方が表出されるものである。
その小さな選択の結果として今のその人の人生があるのだ。
広い知識だけでなく高所大所からの物事の展開を見通す力が「大人」の男女には要るものなのである。

塩野七生の「男シリーズ」即ち「男の肖像」「男たちへ」「ふたたび男たちへ」をとりあえず入浴中だけ読みつづけて読了しての感想であるが、一言で述べるとタイトルを「大人の素敵な男たちへ」にすれば良かったのではないかというもので、幼稚で浅薄な無教養で人間的にカッコウの悪い人間にはつくづくなりたくないものだ、となる。
その為には絶えず「学ぶ」という姿勢と同時に広い意味での「愛」というものが・・・あいまいな表現で申し訳ないが・・・絶対的に必要だと思える。
「見てただけ」という無責任で無関心で個人主義的でいい加減な心の態度が世界中の今の貧困や紛争や格差や身近な問題としての学校や職場での「苛め」を生み出しているような気がする。

ご存知のように愛の反対語は無関心である。「見てただけ」という感性感覚が世の中にはびこって誰もがある種の精神鈍麻症になっているのだ。自分も含めて。

追記
上記した事件は最終的に学校の主導で落着した模様である。当然ながらいずれの関係者もある程度の妥協を強いられたわけであるが、中には全くそれを知らない厄介な人物もおられるらしい。妥協というのは人間の持つ高い知性の現れで偉大な智恵なのである。多くの国際関係、婚姻関係、人間関係、社会や家庭というものはある種の「妥協」によって成り立っている。
ありがとうございました
M田朋玖



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