コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 自動車旅行2018. 1. 7

小学校時代には毎年年末年始に家族で自動車旅行をするのが恒例であった。
その頃は高速道路もなく多く未舗装の道路であったが、その道路に対して自動車そのものの絶対的台数が少なかったので割と快適な旅であった。
母親は運転免許証を持っていたが全く運転ができず、正真正銘のペーパードライバーで、当時は運転兼事務長の若い男性がいて殆んど家族同様にこの家族旅行の時には必ず帯同してくれていた。
とても運転の巧みな角刈りの無口な人で、どんな細い道路も狭い繁華街の路地裏でも全く苦にすることなくスピーディーに侵入しスリ抜けていた。

確か我が家の自動車遍歴をうっすらとした記憶を辿りながら順記すると、最初はスバル360(例の小さなカブトムシのような可愛いクルマだ)、ブルーバード(ダットサン)、セドリック(ニッサン)、スカイライン2000GT(プリンス)、グロリア(プリンス)・・・、父の晩年もオレンジ色のグロリアであった。

プリンスグロリアが続いたのは営業マンが家にしょっちゅう出入りしていて父と懇意だったらしく借金の申込みとかもしていたようで「可愛がって」いたらしい。
つまり「付き合い」が深く購入させられていたという経緯があるようであった。
自動車旅行が始まったのは黒いセドリックあたりからで、このクルマは車体が大きく黒塗りで、まるで「公用車」のようだと父のお気に入りであった。

当時はクルマの値段と家のそれがほぼ同額の時代で大変な贅沢品で、今でいうステータスシンボルであった。父の気性やライフスタイルにもよく合致していたようで、我が家の自動車は小さくて粗末ながらとりあえず車庫の中に納められ大切に扱われていたようだ。

ちなみに父は運転免許証を取得したことはなく、僻地や寒村の診療所に勤めていた時は無免許でバイクを乗りまわして・・・というより実のところ往診に使用していたのであるが・・・そのためか村の駐在さんも黙認していたようである。
のどかな時代であった。
ついでに人吉に住むようになってからスバル360を無免許で酒を飲んで酔っ払い運転し他人の家屋に突っ込むという事件を起こしたが母や親せきが色々を手配してくれたようで大事には至らなかったようである。
今だったら新聞に載りテレビのニュースに流れ、父も恐らく逮捕されていた筈である。
とにかく呑気な時代であった。
余程懲りたのか、以来自動車のハンドルを握ることはなかった。
元々臆病な性格なのだ。
酔うと違うが・・・。

旅行の目的地は大分の別府温泉とか鹿児島の指宿温泉や霧島温泉、長崎県の雲仙とか、宮崎市内の川沿いのホテルとか今なら所謂「近場」であろうけれど、当時の道路の整備状況からするといずれの観光地へも朝出発して夕方か夜に到着するほどの「遠出」であった。

こんな調子で春や夏にも日曜日には行楽地や海や山へ家族でドライブに出かけたワケで、或る意味とても幸福な家族の原風景と見ることもできる。その上素面の時の父はまるで聖者のように物静かで慈父そのもののように優しかった。しかし到着して旅館やホテルの酒宴が始まると或る時点から父の顔がみるみると瞬く間に豹変し「酒乱」「酒鬼」と化したのにはいつも閉口させられた。
大声でわめき、怒鳴り、或る時などホテルのロビーで大の字になって暴れ酔いつぶれた父をホテルのフロントマンと一緒に引きずって部屋まで運んだこともある。
或る程度年齢がいくと父の数々の相当に激しい狼藉であっても、さすがに慣れてくるものであったが心の中では恥ずかしいと思いながら、そのような出来事については割りと平気になった。慣れというのはありがたいのものである。

或る旅行の時。自動車が一方向だけ交互にしか通行できない一本橋にさしかかった時には、さすがにハラハラドキドキしたものだ。
何故かというに反対側の岸辺からこれまた中型のトラックがやって来るではないか。
「これはオヤジと喧嘩になる」と瞬間的に思ったのだ。
酒に酔うと誰彼見境いなくイザコザを起こすというのが常であったので、いつも覚悟していることであった。
予想どおりどちらも全く譲り合うことをせず、ゆっくりと橋の中央までクルマの鼻先がくっつくほど近づいて、とうとう大昔の剣豪よろしく真っ向から睨み合う格好になった。
いったい自分の父親はどのような行動に出るのかと心配でならない。
こういう場合、母親を含め運転手さんや家族の制止や説得に応ずる父ではない。

おもむろに助手席のドアを開けて橋の上に降り立った父は相手方のトラックの運転席に近づき窓を開けさせ「おい、困ったなあ、ジャンケンするぞ。負けた方が道を譲るとたい」(みたいな会話があったと想像するが)いきなりジャンケンを始めた。
そしてどうやら勝ったみたいであった。
トラックは約50m位の一本橋の半分、即ち20m以上をソロソロと後ずさりをして対岸の道路に入り道をよけて譲った。
この時の勝ち誇ったような晴れ晴れとした父の表情と、トラックの男たちの口惜しそうな、それでいて爽やかな笑顔を認めた時には心からホッと胸を撫で下ろしたものであった。

とにかく父親は自動車に乗るのが好きで、日曜日の度ごとに家族ドライブに出かけていた時期もあった。
そうしてその喜び、楽しみ、やすらぎはつかの間のもので旅館や自宅での宴席が始まるとそれらが台無しになるほど酒卓が乱れ、年末恒例の紅白歌合戦が始まる頃にはあらゆるカタチの家内騒動が湧き起こって座敷とか床の間とか和式食卓とかの筆者のイメージは自動車とくらべて極めて悪い。
素晴らしく楽しい思い出と最悪の家族の思い出がアタマの中で複雑に交錯していて、一般的に幸福のカタチとしての家族団欒というものの象徴的原風景としての「食卓」は決して心地良いものではなかった。
だからと言って不幸だったというワケでもない。
敢えてそれを表現するなら「落ち着かない気分」というものであった。
そういう父のことをとても尊敬し深く愛していたこともまた事実であるので「自動車旅行」という言葉は、いつも父への甘い郷愁へと繋がっていく。それは何よりも父の子供や母親への深い愛情をその行動や言葉で確信していたからに他ならない。

ありがとうございました
M田朋玖



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