コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 誕生日2017.12. 5

12月3日は誕生日だった。
今年、平成29年のその日はたまたま日曜日で天赦日(天に赦された日でとても良い日)であったので、オートバイの納車日とした。
8月に衝動的に売ってしまったKAWASAKI ninja14Rが思いのほか高く売れたので、それを使ってもかなりお釣りのくる金額で10年もののYAMAHA FJR1300という中古の黒とシルバーのツアラーを買い足したのだ。
KAWASAKI W800だと高速での不安定で、風で煽られたりして恐ろしかったせいもある。
W800は、加速は結構あっても所詮ネイキッド。
軽量のバイクなのだ。

自分へのご褒美と称して自分のための買い物の言い訳にする人がいるが、そういう感覚での物品の購入は久々である。
納車日をたまたま自分の誕生日にしたことによる何とはない軽い自責感じみた感情があったのかも知れない。
いずれにしても中古とは言え一見は真新しく見える幾分デザインの古い「大人のオートバイ」が軒下の駐車スペースに納まることになった。
前日、即ち12月2日には身内の宴があって少し飲み疲れ、食べ疲れがあって体調が極めて不調であったが、とりあえず試乗してみた。
幸いその日は12月初旬にしては気温16℃と温かく風もなく日も射している。
枯葉が縁石を微かに飾る街路を抜けて高速に入り北へとハンドルを向けた。
走行安定性はまずまずである。
乗り心地はネットで調べたとおり「楽バイク」そのもの。
少しも疲れない。
その日は使わなかったがグリップヒーター(ハンドルの握りの暖房装置)も付いているし、電動のウインドスクリーンも標準装備だ。
しかしながら加速力は14Rに遠く及ばない。
鋭く敏感な、あの圧倒的な加速感覚の得られない、どちらかというと大人しいオートバイだ。
何と言っても今夏まで所有していたKAWASAKI 14Rはスーパーバイクなのだ。
くらべるべくもない。

誕生日には多くの人から色々な心のこもった花束や贈り物をいただいた。
それらはどれも素敵に有り難く、感謝してもしきれないほどであるが、今年になって初めて他者のそれを含め自分の誕生日について色々な考えを抱いたのでそのことを少し記してみたい。

言うまでもなく誕生日は年1回の特別な日だ。
これはその人にとって特別な意味を持つ数字で一生涯その個人に付いてまわる。
そうしてその日には周囲の親しい人々や身内、家族、職場の人々からお祝いの言葉を貰う日でもある。
それが期待どおり得られなかった時の怒りや淋しさや悲しみについては今日この日まで思いを致したことはないが、ひょんなことからそういう気分もあるかも知れない・・・と少し考えるようになった。

主にアメリカ映画などで誕生日を忘れられたと勘違いした娘が父親との連絡を拒む物語、シーンがよく出てくるのを見て怪訝な気持ちにさせられていた。
それは近々では2010年に公開された「アンストッパブル」というデンゼル・ワシントン、クリス・パイン主演のハタメン(働く男)映画で、これは先年自殺してしまった大ヒット映画、あの「トップガン」の製作者、トニー・スコットの遺作となった作品の中でのシーンだ。
「そんなに怒らなくてもいいじゃん・・・」みたいな感想を持ったものだが、その年齢、その時期、その体調によってはそんな気分を味わうものかも知れないと少し共感めいた感情を抱いたので我ながらひどく驚いている。
それは長年つづいた、温かく良好な人間関係さえも破壊しかねないオソロシイ感情かも知れない・・・と自分の心の奥底の暗い闇の部分を垣間見せられたようで結構落ち込んでいる。

だいたい誕生日というのは「不調の日」で心身共にとても不安定になると言われている。
有名人を中心によく死亡する日でもある。
自分の生まれた日が命日になるなんて皮肉なものであるが、そういう人生の周期であるようだ。

そういう心身の落ち込んだ誕生日の日の人物を周囲の人々が祝ってあげて贈り物をするというのは何らかの深い意味があるのかも知れない。
筆者の場合、若い時には誕生日には独りで過ごすことにしていて、大概クルマかオートバイで遠くに出かけその日をやり過ごすということをしてきたが、この年齢になってそういう行動がやや子供じみた幼稚なものにも思えたので大人しくしていたら、周囲で勝手にお祝いの席を設けられて上座に座らされることが多くなって戸惑っている。

晴れがましい席というのが物凄く苦手である上、近頃では夕食を食べない習慣を得てしまって、その「とまどい」も半端ではない。
・・・それでも一方では、親しいとか近いとか思っていた人々から何のお祝いの言葉とかプレゼントとか無かったことへの気分の落ち込みというものには自分でも情けないくらい動揺している。
これはトシのせいなのだ、多分。
そんなこと今まで一度も無かったのであるから。

「ジョー・ブラックをよろしく」というアメリカ映画がある。
或る裕福な会社経営者の誕生日の夜に死神が美しい青年の姿(ブラッド・ピット)をして「お迎え」に現れる・・・それも娘の知り合った人物として・・・。

自分がいつの間にその経営者、アンソニーホプキンス(当時)の年齢近くなってそんなことを考えるのかも知れない。
結構印象深い映画であったし、誕生日と命日についての知識と不思議に合致するのでよく憶えている。

そういう意味で、少なくとも自分としては、親子や夫婦や職場を問わず自分の利害関係者(ステークホルダー)については、その誕生日についてストローク(存在を認める働きかけ)は欠かさないようにしたいものだと考えさせられた。それを欠いたツケは払う覚悟を持った方が良いと思う。それが人間関係というものの自然なルールなのだ。

来年の誕生日は65才(高齢者)だ。色々考えてみて、絶対にこんな複雑な心境に浸るのは真っ平御免こうむりたいので、誕生日周辺の週末はこっそり独りで遠くに出かけようと思う。
「鬼に笑われても良い」し、死に場所を見つけて旅立った「象」と思われても良い。

つくづく「年は取りたくない」・・・と人は言うが、それよりも何よりも「誕生日は迎えたくない」という思いの方が今は強い。

そう言えば知人のとても成功し裕福になった2才年上の社長はそういうこと(年賀状とか御中元、お歳暮とか誕生日のお祝いなど)についてひどく気にする人物であった。
筆者がその人の足元にも及ばないレベルであるけれど・・・。今は少し共感はできる。結構良い意味があるのかも知れない。「多くの人に自分の存在を認められたい」と強く思う人が世間的な成功者の性格特徴であろうし、強い成功への動機付けになっているのだ。

しかし誕生日とは、その本人を祝うことよりも、本質的には両親とかを中心に色々な人生のステージで支えてくれた多くの人々、現在お世話になっている人々に感謝の心を捧げるべき日なのではないかと考える。

ありがとうございました
M田朋玖



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