コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

[戻る]
■ 愁雨2017.11.23

11月も下旬になってひどく冷たい雨が真冬のように暗く、低く、重い雲底から降ってくる。
それは丁度9年前の平成20年11月27日と同じように。
忘れもしない、或る人の急死した日で、そのせいかその朝その人の夢をありありと鮮明に、そして間近に見た。
いつものように夢とは言え、見ている時は全き現実でその人の両親の実家でくつろぎながらそろそろ「出かけようか」或いは「帰ろうか」などと話している時に目が覚めた。
その人の白く透明感のある西洋彫刻のように美しく整った顔があまりにも間近に感じられて、亡くなって以来何度も見てきた夢の中でもかなり近接度の高いものであった。
その表情はいつものように上機嫌ではなく何かに怒っているようであった。
・・・けれどもその人の出てくる夢は朝起きた時に瞬間的に素晴らしい幸福感を感じさせてくれる。
それは「他に何も要らない」
その人が生きていてくれるだけで・・・。
これは大袈裟な感情ではなく死んで9年も経たのに今でも生きてこの現実を一緒に生きているのではないか・・・と思わせるほど強くいきいきとした感情で、或る種の生きる「よりどころ」になっているものなのだ。

死者というもの・・・それは祖父母、両親を含めそれぞれの程度に応じて愛の交歓のあった人々の存在は永遠なのではないかとあらためて考える。
心の中での存在については或る意味生者よりも強烈といえる。
変化しない・・・という意味だけでなく色々な理由から・・・。

それは丁度何度も観るお気に入りの映画や写真、絵画のようなもので少しも古びず、厭きない。
それが美しい愛の記憶であれば尚更だ。
多少、自分の都合の良いように解釈され、磨かれ、結果的に自然に美化され心の中の「御守り」のような強固なイメージとなっているようだ。

早逝した人々というのは長命の人々よりもその存在感においては成した業績にもよるのであろうけれど、未完了という結末、未達という感覚、痛ましさという印象で残された人々の記憶に強く留め置かれるような気がする。
心理学でも未完了というと、より記憶に残りやすいらしい。
そのような分析的な見方でなくても、単なる一論としてたとえそれがとても深い悲しみに満ちたものであっても人生の充実感という意味では愛も恐れも痛みも悲しみも苦悩も喜びも・・・それらが無かったよりははるかにマシであるように思える。

9年前の11月に降った天空の涙のような悲しく冷たい雨は、強い心の痛みを心の中によみがえらせると同時に、その年月というものの、或る種の「勇気づけ」のような色合いが、自分の想い出を淡いパステル画のような彩りで薄やかに染めあげているようだ。
心の中に鮮やかに「生きている」彼女はあらためて死者として永遠に生きつづけている・・・ということを最近はさらに確信するようになった。

9年というと九星術的には丁度ひとまわりだ。
どこかしら似たりよったりの日常を送っているような気もする。
そういう意味で人間というものはナカナカ変わらないものなのだなあと妙に得心する。
我ながら恐ろしくワンパターン。

自分の5才くらいの時の写真。
それは鼠色のダブダブの厚いコートを纏って・・・というより埋まって泥だらけの汚い顔に、まるで孤児のような痛々しさとトボけて素っ頓狂で道化師のような不思議な表情を浮かべ我がプロフィールながら奇妙に自分を魅了する。

その魅力は多分「痛み」というもので、今の63才の自分と少しも変わらず全き同一人物と確認できるほど、其れを共有している。

何はともあれ自分自身の12月初旬の誕生日には色々な計画をしている。
それは世界保健機構(WHO)の定めた高齢者という範疇に組み込まれる前の最後の1年の始まりだからでもある。

「老年うつ病」なんて病名もある。
幸いまだ若さへの憧れはない。
さほど羨ましいとも思わない。
若い時の写真を見ても全く今より良いとは思えない。
周囲の人々にどんなに良いと言われても若い時の面差しは未熟で、野蛮で、荒削りで魅力というものの殆どない顔だ。
全くユーモラスでもないので救い難く悲惨だ。
それでも先述したように5才頃の「コートの写真」には不思議に惹きつけられる。
それは殆んど飾りというもののない剥き出しの「自分」であるからだと思える。

初冬の雨の日の愁いにはハッキリとした理由があるので、・・・それは寒さであり暗さであり、イヤラシイ湿り気・・・あまり悩みはしない。それでも誕生日という一年の加齢は軽い愁いの種でもある。
年齢的にはまだかなり救いがあるものの「老い」というものはそれを理性的にまず良きモノ、素晴らしきモノという幾分哲学的な了解がないとますますもって無残であるかも知れない。

「老醜」ならぬ「老愁」だ。
とても美しく老いた・・・そう表現するのが憚れるほど・・・若々しく健康な90代の患者さんが定期的に来院されるが、その方々は殆んど易学的に若くて元気な星なので特にあやかれるワケではないけれど「生老病死」という人間の四つの苦しみのウチ少なくとも二つ・・・老と病・・・は幾らか軽くしてくれるような気がする。
生と死については前記したかつて愛した人々の死が、自分の虚弱な心を救ってくれている。
いつでも、いつまでも彼らと一緒にいるという心持ちが心をいささかでもやすらかな気分にしてくれるのだ。

ありがとうございました



濱田.comへ戻る浜田醫院(浜田医院)コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせいよくある質問youtubeハッピー講座