コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 学校2017.11.14

20年以上前になるが、当市のボランティア団体でセーブ・ザ・チルドレンという組織の下部団体で「ネパールに学校を造ろう」というプロジェクトがあった。
地元の中学校とその保護者、市役所の職員の方や先生たちで構成されたメンバーが数年に1回ネパールに出かけて行って学校建設の現場とその成果を視察するというのが募金をつのってそれを送るという事業と同時に行われていた恒例の行事であった。

校長先生のOBとか市の有力者もメンバーにおられて、帯同するドクターもおられたが、その先生の思いがけない病気のために急遽筆者が請われてその視察旅行に同行することになった。

ネパールは、当時はアジアで最も貧しい国のひとつで、世界でもアフリカのマラウイと1、2位を争う最貧国であった。
その頃はまだ「王国」で香港を経由した乗り継ぎの飛行機は「ロイヤル(王室)ネパール航空」という呼称を持ち、今思えば微かなカレーの匂いが常に漂っていて軽い嘔気を催させていた。

眼下には目立った木や森や住居の殆んど見当たらない灰色の荒涼としたゴツゴツとした剥き出しの山肌をいくつか越えた先のやや大きめのくぼ地があって、そこにある集落が首都のカトマンズであった。
人口は当時も100万人はいたらしいがとてもそれ程の人間が住んでいるという規模の街には見えなかった。

カトマンズからバスで数時間揺られ、その後徒歩でいくつかの山を越え辿り着いたのが〇〇村で名前は憶えていない。
深い森に囲まれ散在している筈の住居は見当たらなかったが、岡の上を平地に地ならしをされた黄土色の運動場の北端にL字型に建てられた小学校があった。
それはレンガを積み上げただけのとても簡単な造りで、ガラス窓というものもなく吹き通しの壁面の窓はただの「穴」で、他は単なる壁であった。
黒板と椅子と机、教卓以外に目立った備品はなく、とても殺風景なものであったが子供たちの屈託のない無邪気な笑顔とキラキラした瞳がそれらの環境の貧しさを圧倒していた。

日本の小学校や中学校でこれらの顔の表情を見ることはないだろうと思える。
彼ら(ネパールの子供たち)は学校に行けない。
元々存在しないからだ(教育の整備状態の悪い国で豊かな国はない)。それで子供たちが何をするかというと労働だ。
山から谷、谷から山を移動して水汲みとその運搬その他の家事や農業、林業の手伝いなど朝から晩まで何らかの長時間でキツイ肉体労働をさせられるので、学校に行くことはまず「楽」なのである。
その上、何かを学ぶ・知るということが深い喜びであることを誰から習ったり学んだりしたとか、何の前知識も無いのに「知っている」のだ。

そういう意味ではネパールの子供たちは日本の子供より精神的に幸せかもしれない。
日本の子供たちの教育環境は見たところ極めて悪いように思える。最近では表情の良い少年や少女を見たことがない。
正しく学ぶ、勉強する為の邪魔な要素がたくさんあるからだと思える。
それはまずテレビ、ゲーム、携帯電話、それに勉強部屋という個室である。
「労働が無い」というのも有害であるように思える。

昔の小学校にはよく設置されていた二宮金次郎(尊徳)の「柴木」を背に歩きながら読書する銅像は子供の教育上この上もなく好もしいモノと思える。
労働と学習を同時にする・・・ことが能率という点でも健康上もしつけの上でも素晴らしい象徴なのである。
時を惜しんで学ぶ・・・。
ちなみに読んでいた本は中国の古典の「大学」という短い文章の編集された儒教の教科書である。
日本の子供たちは学校の教育とそこで学ぶということの意味や目的、大切さについてキチンと学んでいるのであろうか。
色々な個人的な経験では先生も子供たちも親も何故学校というものが存在し、どんな目的でそれがあるのかをクリアカットに理解しているのか・・・いささか心配である。

日本国憲法に国民の三大義務が謳ってある。
それは「納税」「勤労」「教育」というもので教育を子供に受けさせるのは親の義務なのでる。
学校でまずは「読み書き、ソロバン」である国語と算数(数学)を学び、それらに派生した理科、社会、体育など・・・さまざまの日本や世界の歴史・文化を学ばなければならない。
それは日本人として生きていく上で最低限の内容である筈で、実際に中学校の教育の内容を見てみると結構ハイレベルである。

それで筆者が内容的にやや弱いと思えるのが戦前にあった教育「修身」・・・言い換えるなら「しつけ」というもののような気がする。
それこそ「大学」の言葉に「修身済家治国平天下」。
天下を治めるにはまず修身。
自分の行いを整えることであると教えている。
即ち礼儀作法や服装態度、振る舞い、挨拶などの人間の社会を生きていく上での基本的な問題を学校教育で重視していないように思える。
モチロン家庭の教育においてでもある。
その人物の立身出世が主に学業成績に偏した結果生じた弊害とも思えるが、社会全体として戦前のように「修身」に重きを置いたやや軍隊式にした方が良いのではないかと思える。
筆者の長男は福岡の私立高校に入学して卒業したが、こと「しつけ」という面では尊敬に値するほど礼儀正しくしっかりしている。
その高校の卒業式に出席した時にはまるで昔の軍人の礼式か自衛隊のそれのようにカクカクした少しユーモラスな生徒たちの動きと直線的に整然とした今では北朝鮮の軍事パレードのような趣きであったが、不愉快な式ではなくひどく好感を持った。

日本の主たる教育現場、即ち官製の学校でも校長先生を頂点とした上下の秩序、ヒエラルキーをしっかりと作り上げ、これを社会全体で後押しすべきであろうと思える。
つまり学校の先生の権威回復と彼らの人間性の陶冶、即ち「修身」を全国民を挙げて図るべきと思える。
これはモチロン全国民にも言えることである。
国家というのもにとって子供の教育ほど大切なものはない。為政者だけではなく、あらためて認識する必要がある。政府も社会も多くの人々も世の中の課題の優先順位を間違えているような気がする。イヤ正確には忘れているのだ。自分の国や自分自身が立派な教育によって豊かに存在していることを。学校教育にはもっと十分な時間とお金とエネルギーを傾注するべきだ。

カズオイシグロの本を読んでいるとこんな一節があった。
「バラバラになろうとする世界をつなぎ留めているのは子供なのだ。それはブラインドを括る撚り糸・・・」。まったくそうかも知れない・・・と思える。作者はこの説を繰り返しているので、多分確信しているのだ。家庭のみならず「学校」の存在がいかに重要であるか現在繁栄している国々の観察でも明々白々なのだ・・・少なくとも国家にとって・・。一時期流行った学校不要論というものは恐らく亡国の徒の空論なのである。

なんだか最近は書く内容が説教臭くてイヤだ。イヤだイヤだと思いながら自然にアタマから出てくるのだから仕方がない。この年齢になった時点での社会的な役割、無意識的な使命感が書かせているのかも知れない、などと自分を何とか納得させている。

ありがとうございました
M田朋玖



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