コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 知識2017.10.31

「幸せとは視野の広い深遠な知識を持つことです。その知識とは嘘と真実、低俗なものと高尚なものを見分ける力です」
ヘレン・ケラーの言葉である。
少し前まで反「知識の偏重」とか反「教養主義」とかの社会の動き、ムードがあって、教育の内容にも「自分で考える力」とか「創造性」とかの涵養の為に知識を記憶することを軽んじる傾向があったように思われる。
1980年頃に始まった「ゆとり教育」というものがその考え方の典型例と思える。
即ち「暗記」とか「知識の詰め込み」を教育上よろしくないと捉える考え方である。
「自分で考える力」にしろ、その材料として言葉があり知識がある筈なのにである。
その知識についての価値付けについてヘレン・ケラーの言葉は結構重い。
それは「幸せ」とまで言い切っているのであるから・・・。
条件として視野の広さ、深さ、遠さ・・・とやや立体的な表現で言い表している。
その目的として虚実、低俗と高尚と明確に述べておられるので、知識重視の人間としてはかなり嬉しいしホッとする。

「無知は人生に壁つくる」という言葉もある。
問題や課題に直面した時に「無知」であるとその問題が壁になってしまうということだ。
人生はその各ステージでそれぞれに応じた問題・課題をその人間に突き付けてくる。
子供は子供なりの、少年は少年なりの、青年は青年なりの・・・。
金持ちだろうと貧乏だろうと、身分が高かろうと低かろうと次々と与えられる問題。
その問題は広く深い高尚な知識を持っていると解決しやすいし、乗り越えるのが簡単になる。
・・・だから「幸せ」なのだ・・・という風にヘレン・ケラーの言葉を理解している。
ご存知のようにヘレン・ケラーは幼児期の重い病気によって視覚と聴覚を失った。
結果的に話す、喋ることもできなくなったので所謂「三重苦」の持ち主として広く世界に知られた人物である。

厳しい家庭教師・サリバン先生とのやりとりは映画「奇跡の人」として描かれた。
名作である。
サリバン先生役の女優、アン・バンクロフトはこの作品で一躍有名になった。
ダスティン・ホフマン主演の「卒業」という映画でも名演技を見せた女優さんだ。

ヘレン・ケラーの生きる苦しみを救ったのはひょっとして「知識」なのかも知れない。
教育家、社会福祉活動家として活躍し世界中の障害者、健常者を勇気づけた。
そのような人物の言葉であるから重みが違う。
その知識の宝庫としての書物やテレビ、インターネットなどの情報機器は知識を人々に提供することでそれらを得た人を「幸せ」にしている筈であるが結構そうでもないように見える。
それはヘレン・ケラー女史の言うように、広く深く高尚な真実の知識という条件を満たしていないからだ。
どうでも良い知識ばかり豊富で、大事なことを知らない無知の人が結構いる。

「無知の涙」という書物を著わした死刑囚・永山則夫は自らの著書で自分は結局無知の為に殺人(連続ピストル殺人事件)を犯したと述べているようだ。
「木橋」という小説で文学賞まで取った作家として知られている。

仏教の本でも怒りや貪欲と同じく「無知」は悪と断言している。
人間が正しい知識を持つことはとても大切なことであるのだ。
ソクラテスの「無知の知」というのも有名である。
自分が無知であることを知り、学びつづけるという知的態度が本当の知者である・・・というように理解している。

宇宙的真理は言葉にはできないそうであるし、これは感覚的に理解できる。
宇宙の運行とその調和を正確に言葉や数字でいくらか分析はできるかも知れないが、その本当の存在理由、意味、目的を言語的に理解することは不可能に思える。
少なくとも人間の理解力はその言語の振幅を超えることができないのだ。
人間の視覚や聴覚もある一定の波長とか振動とかしか感知できないように、宇宙の「理屈」を人間の知性で言語的に推し量るには限界があると認識して「考えた」方が良いと思う。
人間の知的傲慢さをどこまでも嫌い、蹴散らしてくれるのが自然や神や宇宙というものなのだ・・・と思える。

それでも人間として生きて行くのに色々な広い知識というものは有難い。
そうしてその知識を振りかざし、時に人を傷つけ、貶めるのもまた人間の知識であるのだ。
まさに両刃の剣とも言える知識。
それに一定の枠組みというか「幸せ」という方向性を持たせ条件づけたヘレン・ケラーの冒頭の言葉は筆者を幸せにしている。

ありがとうございました
M田朋玖



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