コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 自分の考え2017.10.26

学校で「自分の考えを持て」と教えられる。
またそれがまた立派なことだとも・・・。
これにはいつも疑問を持っていた。
未熟な人間が浅い知識と情報を材料に「自分の考え」など持ったら「危険」なのではないかと思える。

平成28年7月26日に起こった所謂「相模原事件」では植松聖という20代の若者が「意思疎通の出来ない者は安楽死させるべき」との考えから同市の障害者施設押し入り19人もの無辜の人間の生命を奪った。
拘置所に収監されている同人に取材を求めた記者とのやり取りがテレビで報じられたが、前記の「意思疎通・・・」の考えは決して曲げようとせず頑なにそれを保持し周囲に自分が理解してもらえないというイラダチを見せていた。
驚くべき自己狂信性というべきか。
自分の考えに固執するという点では異常であるものの、他の言動・態度についてはその異常性があまり見受けられなかったので「自分の考えへの固執」ばかりが目立った取材内容についての印象であった。

中国の明代に洪自誠という人物の著わした「菜根譚」なる古典に「従欲の病は医やすべし、執理の病は医やし難し」という一文がある。

欲に従い捉われている“病”は治せるが自分の理屈や考えに捉われている者は治せない・・・という意味である。
これは物凄く怖い論であるが、件の植松聖でなくても自分の考えに固着し、それに自信を持ち、それに基づいて生きている人を時々見かけるが周囲から見ると結構厄介である。
その害がその考えを個人にとどまるならまだ良いが、その考え、それも有害な考えを周囲や社会に押し付けようとする人間がいるとただの厄介では済まされない。
言うまでもなくヒトラーという人物はその典型で国家権力を掌握してしまった人間が有害な理屈や考えを持ってそれが修正不可能であったとしたらこんな怖いことはない。

ユダヤ人とかの言わば社会の嫌われ者や障害者を劣等者と決めつけ社会から抹殺するべきとの「考え」を多く人々に広め、強制し実行したという歴史的事実を鑑みるに「人間の持つ考え」のオソロシサをマザマザと見せつける事実があるにも関わらず、学校の教育で「自分の考え」を持てというのは一体それこそどのような「考え」に基づくものなのであろう。
日本にも「優生保護法」なる法律があって、これは女性の妊娠の中絶を基本的に自由にするモノで、母体を守る、女性を守るという点では或る意味良い法律であると思える。
モチロン反対者も多くいる。
カトリック教徒、仏教徒をはじめ授かった生命を人間の自由意思で「断つ」のは殺人と同じではないかという「考え」がある。
モチロンそのような側面もあるけれど、この議論は結論が出ない。
霊的、宗教的にはマズいかも知れないが現実的には、特に母体保護の観点からはこの法律の存在は女性にとって有難いものに違いない。

ただし「優生保護法」という法律の考え方の中に「不良な遺伝的要素を断つ」という意味合いもあるので前記した植松某の考え方も微妙に同調しているように見える。

話しを戻すが自分の身勝手な、どちらかというと反社会的な「思い込み」「考え」と、良く立派な人が「信念」と呼ぶ、その人の信じている念(思い)との差異はいったい何であろうと考えてみた。

「念ずれば花ひらく」という言葉がある。
当方の施設にもその「詩碑」が設置してある。
先年97才で亡くなった坂村真民先生の言葉だ。
その自筆の書を大書してもらって、四国・愛媛県から送ってもらってそれを友人の石材屋さんに適当な石を見つけてもらって刻み込んでもらって建立された。
平成17年の春だ。
480番碑とのことである。
この詩碑は日本全国のみならず、遠く海外にも存していて多くの人々に拝まれ花を供されている・・・筈である。
とにかく念願成就、招福消災を祈願した石碑であるので坂村先生曰く、どんな願いもことそれが邪悪なものでなければ殆んど叶うという有難い、霊験あらたかな「石」であり、言葉なのである。

念というのは想いであると同時に自らや他者を幸福にしようと意図されたものであり、それは人に押し付けたりするモノでなく、ごく個人的なもので理屈でもない、ましてや考え方でもない。
とにかく純粋な思いなのである。

感性論哲学というのがあって、哲学者・芳村思風とか行徳哲男とかが有名である。
この哲学によれば理性(理屈)は必ず衝突し、対立や争いや議論を生む。
一方で感性はそれらを生じさせず、調和や愛を生み出す・・・とのことであった。
いずれにしても感性は自分の理屈や自我を超越したものであり、宇宙的な調和から生まれるものらしい。

難しくてよく理解できないところもあるが何となく分かる。
とにかく理性、理屈ではない。
どちらかというとそれらと対極にあるものであるようだ。

人間は感動して動く。
理屈では動かない。
理動という言葉がないように感じて動く、感情で動かされるもののようである。
自分の理屈を言い立てて相手を攻撃する、もしくは防衛するというのは人間の良く選択する行動、言動である。
それらを超越して人間の社会を生きていくのに「執理の病は医やし難し」の言葉はアタマの片隅に置いておくと良いだろう。
自省自戒のために、そして他者の観察に・・・。
「医やし難し」という結論めいた言葉に打ちのめされるが「医やせない」とは言い切っていない。
「医やせる」チカラは恐らく愛しかないのだ・・・多分。少なくとも違う「考え」や理屈でないことは確かである。いずれにしても自分の考えを持ちその上自信家の人間をどうやって教育すればいいのであろうか?上司や親や目上、上長から見てこれほど厄介な人はいないであろうし、当の本人も明らかに不幸であるように見える。自覚はないのであろうけれど。個人的には自分の考えなど塵ほども重要視していないし他人の考えや、社会の思想や時代の流れに適合した考えには常に心を開いているてもりである。
自分が、教育する立場なら「自分の考えには絶えず疑問を持て」と教える。そしてどんなことにも「こだわるな、とらわれるな」と。これは多分に仏教的な考え方であるから、これも考えではあるな。結構深い問題てある。ムツカシイ。

ありがとうございました
M田朋玖



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