コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 思いやり運転2017.10.17

大学の同窓会で熊本市内に久々にクルマで出かけた。
我が愛車レクサス600hもオートクルーズ+自動追尾装置(全車連クルーズ)が付いているので長距離運転、混雑ドライブも比較的楽である。

それでも都会の混雑した多車線道路を走るのには少々骨が折れる。
神経を使う。
秋雨に濡れた夕暮れの街路を他車と微妙に調和を取りながら走らせているとつくづく思うのだ。
都会での混合交通の中では愛と思いやりと親切心と遠慮と気遣い、気配りがいかに大切であるかを・・・。

少々気が荒いとされる熊本人の運転も他県特に関東六県などからすると少しく大人しいと聞く。
お互いに目配せをし、手刀での挨拶、軽い会釈、ハザードランプでの御礼とかを送りながら道路交通の「調和」を無意識に保とうとしているように思える。

クルマという名の水流が道路という名の複雑な水路を粛々と静穏に流れて行く様をしみじみと眺めていると人間の共同社会のルールが暗黙の内にお互いによく了解され、納得され、実行されていることに思いを馳せる。
考えてみるととても素晴らしく麗しい光景だ。

今年平成29年10月1日には「ピースライド」というバイクの集まりが南阿蘇の道の駅で開催された。
集まって写真を撮るだけなのであるけれど、テレビでの案内が功を奏したのか大変な盛況で夥しい数のオートバイが集まっている。
そうしてそれら多くのバイカー達が片手を挙げて挨拶をし合う。
中には両手を大きく振って嬉しそうに親愛の情を示そうとするライダーもたくさん見かけた。
それらの見知らぬ人々との温かい交流のひとときはロングツーリングの疲れをいっぺんに取り去ってくれ、自然に自らの表情に笑顔をつくらせ、心を優しく温かくさせる。
人間は自然な状態では元々交流したい、愛し合いたい、集い合いたい,睦み合いたいものなのだ。
元来孤独好きな筆者ですらそれらの温かい交流というものを好んでいる・・・ということにあらためて気づかされた。

このような考えから道路の交通というものこそ愛と調和、寛容と思いやりなど人間の善心の発露されるべき場であり、それらの志向性によって成り立っているものなのである。

ところで今年平成29年6月の東名高速の夫婦死亡交通事故の経過は誠に気の毒であった。
犯人の石橋某容疑者の行動はかなり異常なモノで、高速道路上で夫婦と子供の乗るワゴン車の前に自分の車を割り込ませて停車させ、夫の胸ぐらを掴み道路上に引きずり降ろそうとしたらしく、その間に走行して来た大型トラックに追突され夫婦を死亡させたとのことで、当然ながら警察に逮捕されたが、追突する羽目になった大型トラックのドライバーも良い迷惑だ。
大災難だ。
自動車保険の問題、道交法の問題もあったりして処罰とか責任とか賠償の問題など結構複雑で長引く模様である。
いずれにしても「犯人」の悪質さにおいては稀なケースで、前の晩に飲み過ぎて早朝に飲酒検問に引っかかった・・・等よりもはるかに質が悪い。司法の判断については相当に妥当適切なものが望まれる。
社会も遺族も関係者(トラックのドライバーなどを含め)なども納得させるものではならないので・・・。

この犯人(石橋和歩)像についてはネットで取り沙汰されているが、足でハンドル操作をしていたとか殆ど挨拶をしないとか、所謂社会性・道徳性の欠如したパーソナリティーと考えられる。
基本的なコミュニケーション能力というか存在そのものが異常であることがうかがえる。
自己中心的で、独りよがりで、攻撃的で、気短で衝動的。
反社会的なパーソナリティーであることは間違いないが、このような人もチャンと運転免許が取れて運転者として一般の道路を走っているというのがオソロシイ。

逆に見ると多くの人が「そういう人間ではない」ということを気づかせてくれる事件ではあった。

先述したように混雑した街路の整然として複雑な交通ルールが殆んど遵守され、応用され、お互いに調和しながら行われている毎日の一般交通を思う時、或る種の感動を覚えずにはおれない。

基本的に人間は良きモノ、素晴らしきモノであることに・・・。
そうしてそれは時々起こる悪意のある人の悪行、善意の人の過失、気弱な人の逃走や責任回避的行動によってマザマザと社会に提示され、時に人間の心の弱さや思わぬ攻撃性を露呈させるのだ。
それらの裁きには法律的にキチンと峻別されているのだろうか。悪質か単なる過失ではその処罰に差があるのだろうかと。
そうしてそれは、いつも他人事ではなく、自らの心にも時々生じるものである筈のものだ。

ノロノロと走るクルマに対する怒り、道路脇をゆっくりヨタヨタと行く自転車に対して罵詈雑言を浴びせる人もいると聞く。
少なくとも道路上でモタつくドライバーや歩行者に対してイラつき、悪言を発して恥じない人も山のようにいるだろう。
それらの人びとに警告を発しているような件ではあった。

まともな人間ならクルマを運転するうことが重い責任を担うことであり、基本的な交通ルールを守るべきであり、さらには立派な社会人としての責務を果たすべく、子供たちの範になるべく美しいマナーと礼節を見せる表舞台なのではないか・・・とまで考えている。

いずれにしても結局車の運転というものにはその人物の人間性というか人格が表出されるものであるので、普段から人間性の錬磨に腐心しなければならないし、基本的なマナーを学び、クルマというものをよく考えて冷静沈着に操作されるべきものなのだ。

しかしながらこれらの事柄はよく忘れられる最大のもので、免許更新時の講習会というものは極めて有益であると思えるので筆者のアイデアであるが「みどりの日」とか「山の日」とか「海の日」とかのワケの分からない祝祭日は「交通安全の日」とかに変えて何らかの啓蒙活動の催し事をする日にしても良いのではないかと思える。
あとは「警察の日」とか「自衛隊の日」とか「消防の日」とか何らかの教育的な意味合いを持つ休日を設けたほうが良いのではないかと思う。

とにかく「思いやりと優しさ」
これこそが全ての運転者に求められる心構えではないか・・・と弱者保護の立場を貫くという運転者の視点として正当ではないかと思える。こどもや高齢者を頂点に自転車やバイク、軽自動車、普通乗用車、普通トラック、大型トラックの順番。ついでに大型バスの存在位置についてもよくよく吟味しておいた方がよろしかろうと思える。

「小人は不仁を恥じず」と易経にある。
つまらない人間は思いやりが無いことを恥じないという意味だ。まったくであるなぁ。

ありがとうございました
M田朋玖



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