コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 秋バイク2017.10. 1

レイモンド・ラブロックは筆者の高校時代に流行ったイタリア人の歌手で俳優さんの名前だ。
実際にこの人の出演する映画を観たことはなく、歌も聴いたこともない。
ただ若者向けの芸能雑誌のグラビアを飾った写真がとても印象的で、今でもよく心の中のイメージとして残っている。

秋の日の森か公園だかを背景にオートバイにまたがり、サングラスをかけ、タバコに火を点けようとしている写真だ。
カーキ色のTシャツにブルージーンズ。
栗色の髪は長く額に垂れている。
どちらかと言うと何の変哲もない普通のプロフィール写真なのであるけれど、それは奇妙に心惹かれる映像で不思議に心癒やされる。
とても秋らしく柔らかい陽射しが木漏れ日となって落ち葉の地面に白い光のまだら模様を落とす全体に濃い緑色の一枚の写真であった。

モチロンその写真の中心にはレイモンドさんの幾分陰影の濃いイタリア人らしい彫りの深い横顔で、欧米人にしては異様に短い鼻と肉感的にめくれた唇と逞しい顎に特長があった。
黒いオートバイとのマッチングが構図としてウットリするほど魅力的で、個人的にはどんな名画よりも豊かな気持ちにさせてくれる。心の湖面に懐旧的な喜びのさざ波を常に生じさせてくれる記憶の中の「写真」なのである。

実際にはレイモンド・ラブロックのファンだったことは一度もない。
けれども不思議なことにこの一枚の写真が筆者の心を遠く甘い郷愁の喜びの湖にいざなってくれるのは確かなようなのだ。

オートバイは反逆と自由のシンボル。
それが秋の日の陽だまりで美しいイタリア人にまたがられ、いくらか嬉しそうに見える。
それは逞しい健脚を持つ駿馬が静かに、控え目にご主人様の鞭入れをまっているかのようだ。
オートバイに乗りは初めてもう40年近くになるが、このレイモンド・ラブロックという人物のただのグラビアが導き出す喜びの理由が今でもよく理解できないでいる。

ただフルカウルのツアラーを手放しみて、残った幾分クラシカルなネイキッドの黒塗りのバイクに時々乗ってみると先述した写真を思い出さずにはおれないのだ。
そうしてそれを敢えて思い出すとバイクに乗る喜びが確実に深まる。
いったい何なのだろう。
9月も下旬になると夜も昼もオートバイは結構楽しい。
その寒さがスピードをさらに感じさせる。
夜の闇を突っ切る時、いつものようにエンジンの鼓動が心地良く乗り手の心を浮きたたせる。
元々不快な筈のグリップに伝わる振動ですらささやかな冒険心をくすぐる。

オートバイは生き物・・・そんな風に言う友人もいる。
機械に対して急にはそんな風には思えない。
けれども生き物と思った方が楽しいにちがいない。
一度だけ経験した乗馬のギャロップ(早駆け)には及ばないもののオートバイのソレも結構生きていると思えなくもない。

久々に仕事を終えて夜のソロツーリングに出かけてみた。
午後6時には殆んど山際に没してしまう秋の太陽も西の空にオレンジ色を残し青味に沈んだ冷気を切り裂いて転がす2つの車輪と丸い前照灯と排気量0.8Lのエンジン。

それらの織りなす田舎道の夜のソロツーリングの世界は、夜空と月と星と闇を突き刺す光と爆音と風切り音・・それらと戯れる複雑な快楽で、一言では説明出来ない。大袈裟に表現するなら、ある種の一体感、それは先ずオートバイとの一体感、自然との一体感そしてまた逆説的に、孤独という名の自分自身との一体感だ。そうしてヒンヤリとした夜の闇に溶け込んで行く自己忘却の感覚だ。

今でもこころを本当に癒やす唯一の友達はオートバイだけなのであろうかと・・・。
緑色の兄弟(KawasakiZX14R)を手放して二人きりになったなあ・・・いつものように心地良い振動に揺られながら直線道路で思い切りアクセルを開けた。
その時時に生まれる欲望と衝動と勝手に浮かんでくる快のイメージに突き動かされて選択してきたように思える数々の決断。
ほとんどいつも流されて生きて来た。
それは風に吹かれる儚い一房の秋の浮き雲のようだ。
いったい自分はどこに行こうとしているのだろう。

ありがとうございました
M田朋玖



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