[戻る] |
■ ハラスメント | 2017. 8.14 |
セクハラ、パワハラ、モラハラ、アルハラ、マタハラ・・・と無限にハラスメントの種類があるようだ。 この問題は或る意味、現代人の心理反応を象徴的に現しているひとつの社会現象ではないかと筆者は見なしている。 この問題が主として職場、即ち仕事をする場所で発生していることが結構悩ましい。 逆ハラスメントという呼称もあるようで、少しずつ深刻化している風ではないけれど、それが常態化して少なくとも結果的に職場にも仕事にも個人にも良い影響は与えていないようである。 ハラスメントというとすぐに被害者と加害者と第3者の立場がある筈なのに、ごく皮相的に見まわしてみて一般的に被害者(ハラスメントをされた側)の主張ばかりがまかり通り、加害者の弁解が殆んど通用しないという点で電車内における痴漢被害の冤罪事件とよく似ているように思える。 いったん痴漢呼ばわりされたら殆んど言い訳が効かず、殆んどの場合、犯罪者にされる・・・という実態は異常事態と言わざるを得ないが、この問題について決して看過して良い事柄ではないのに警察も司法も被害者も冤罪の被害者も誰もあらためて勇気をもって声をあげる人もおらず、手をつけようとする奇特な人も今のところ現出していないようである。 映画監督の周防正行氏はその作品でこの問題を取り上げたが社会の反響は極めて冷淡であったようだ。 多くの人は所詮他人事とタカをくくっているかどうでも良いと思っているのだ。 この問題はただ用心すれば良いとか注意していれば良いとかの問題ではなく、あらためて真剣に考えてこの物事の構造の理解が全ての人に必要と思い筆を執っている。 セクハラ、パワハラなどそれを発言したり行動したり人の意図には関係なく、ハラスメント(いやがらせ)と感じたり受け取ったりしたらただちにそれがハラスメントになってしまうというのは基本的にマチガッテいるのではないかと思える。 何故なら「一方的」だからである。 被害者と主張している人の話を一方的に許容するのは片手落ちなのではないかと思うのに,何故多くの人はこのことに対して疑問に思わないのか不思議でならない。 世の中には裁判という制度があって被害者、加害者双方の意見を聴き第3者(裁判官・司法当局)の裁可を仰ぐというような面倒臭いことではなく、物事とというのは少なくとも上記のように最低でも3つの立場から検討しなければならないのではないかと思うのだ。 どういうワケかハラスメントと痴漢の冤罪についてはどうして問答無用になってしまうのか・・・。 そこがワカラナイ。 アルバート・エリスという心理学者の考案した論理療法というのがある。 別名ABC理論と呼ぶように結果(感情)に至るまでの流れを以下のように分解して説明している。 A:affairs(出来事) B:Belief(信念、考え方) C:Consequence(結果) A→B→Cと流れると構造化するワケである。 たとえば上司が部下に対して「おい、飲みに行くぞ」と声をかけたとする。 これをAとする。 部下がB「上司が飲みに誘ってくれた。これは自分が目をかけてもらっている。可愛がってもらっている」と考えたならば、C:良い気分、嬉しいとなって何の問題も発生しない。 つまりハラスメントではない。 ところが一方で、同じA(上司が飲みに誘う)が起こった時、B(部下の信念、考え方)が「部下は上司の誘いには必ず応じなければならない。そしてそれは或る種のイヤガラセだ」というものであればハラスメント、C嫌な気分、所謂パワハラとなってしまう。 女性の部下に対する「結婚話(A)」というのも(B)「上司は私のことを気遣ってくれている。有難いことだわ」という捉え方ならば当然(C)結果(その女性の感情)は良好のものとなって何の問題もない。ところが同じA「結婚話」についてB:女性の思い込みが「まあ失礼な、私の人生・生き方にケチをつけているの」あるいは「余計なお世話だわ、ほっといて!」であればCの結果、その女性の感情はとても不快なものであり怒りの感情であるかも知れない。即ち立派なセクハラの誕生だ。なんかおかしいでしょう。物の見方、捉え方、でハラスメントが生じたりしなかったりする。 上記のようなA→B→Cの流れにおいて着目すべきは加害者(便宜的にこう表記するが、実のところ言葉や行為の発現者のことである)の意図の正邪善悪の有無が全く考慮されていない点だ。 ハラスメント問題にしろ痴漢冤罪問題にしろ「そんなつもりはなかった」ということが全く通用しないということだ。 これは脅迫事件などの立件でもよくあることらしいが、ある言葉や態度をされて、それを聞いた個人が少しでも「怖い」「怖かった」ということが文言や文章で証明できれば事件として取り扱われるらしい・・・のとよく似ている。 このややこしいハラスメント問題を筆者なりに大胆にザックリと切り裂くならば「加害者」に意図(イヤガラセ)があるならば加害者の問題であるし「加害者」に全くイヤミ・イヤガラセの意図がなく全くの善意であったとしたなら被害者の受け取り方、感じ方の問題ということになる。 そう考えるとそのハラスメント事案を受けた裁定者(多くは責任者)は客観的に見て加害者の悪意か善意かを詳細精密に分析判断して誰が見ても善意であるのに、やれパワハラだ、セクハラだと言い立て続ける被害者の方を問題視しなければならない・・・のではないかと考えている。 最近の傾向としては「被害者意識の横行」というのが社会全体に蔓延していて何でも悪意に受け取り自らも悪意で接するという人々が多くなって、人々はお互いに「愛」や「ゆるし」ではなく「恐れ」や「攻撃」の虜となってそのような自己主張、自己防衛をさも当然の権利であるかのように考えて振る舞っているように見える。 それらの主張や防衛が結構見苦しく、決して美しい行為とほめたたえるべきことではないのにである。 これらは今の国際情勢にも言えることで、だれもが人間らしい廉恥というものを忘れ、自らの行為・言動についての美醜について思いを致さなくなった証左かも知れない。 ハラスメント問題と考えた時にすぐに思い浮かぶのが加害者・被害者双方に断じて揺るぎがない感想と言えば、このその言動行動についての美醜とか廉恥とかについての人々の感受性の劣化なのではないかと思える。 要するに行動における美意識の欠如ではないかと考えている。 これは、多少言い過ぎとは思えるが、何かしら良いアイデアはないのであろうか。冤罪痴漢はともかく、何だか不毛のイザコザの種になっているなあ、と思えるのがこの「ハラスメント」という言葉と、「個人情報」という言葉である。 ありがとうございました M田朋玖 |