コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 秋立ちぬ2017. 8.10

大型の台風はまたもや九州に「上陸するぞ」と見せかけたが見事にそれて宮崎県の東海上を北進し四国に向かったようだ。
台風につきものの暴風雨の片鱗はやや強めの風のみ・・・。
それは秋の到来を告げるように心地良く涼やかな空気の撹乱で木々を揺らし、人々の頬をやさしく撫でた・・・という程度であった。

今日8月7日は立秋。
暦の上では秋だ。
台風の影響か早くも暑さが緩んで夏の終わりの秋涼を感じさせる。
それでも例年どおり夏のBGM、蝉の声がかしましく田舎町に響きわたる。
昼の時間はどんどん短くなり、夜明けが遅くなり、日暮れが早くなる。
温暖化の為とされている異常気象の頻発する昨今でも季節の時間の流れには厳格な正確性と完璧主義者の几帳面さが存するようである。

子供の夏休みは始まったばかりだが、秋の気配があらゆる夏の風物、朝夕の過ごしやすさや日光の微かな翳りの中にチラチラと垣間見られて妙に心寂しくなる。

その秋の寂しさの頂点はやはりお盆なのではないだろうか。
仏教的な意味合いの色濃いこの時期、その風習は象徴的に精霊流しに現出されているように思える。
亡くなったご先祖たちがお盆の灯明を頼りに生家や実家に帰って来られるそうで、ここ10数年は一人でお盆の8月15日は神棚(筆者は神道であるので仏壇ではない)の前で過ごしている。

亡父、亡母、祖父、祖母が本当に帰って来るような気がするのである。
そうして彼らを偲んで少し悲しい気分を味わいながらご当地恒例の花火大会の美しい光輪の炸裂をベランダで一人静かに眺めるのだ。

自分としてそれは結構神聖な時間であるものの、霊感が弱いせいか霊的な気配を身辺に特に感じるワケではない。
ただ何となくボンヤリと神棚の設置された畳敷きの小さな部屋で過ごしているだけなのである。

平成21年のお盆には個人的に特別な人の初盆であったので、その人の住んでいたアパートのベランダに線香とローソクを持ち込んでビールを飲みながら花火を眺めた。

それはとても寂しく、深い悲しみに満ちたひとときで、その人と一緒に流した母の精霊流しを思い出しながらの一人酒盛りで、しみじみと不思議な巡り合わせに思いを馳せた。
今となっては出逢ってしまったことが幸か不幸か分からない。
けれどもその人と過ごした日々の思い出は人生の珠玉とも呼べるほど汚れのない美しいもので、そのことが尚更深い悲しみを心の中に際立たせるのである。

モチロン出逢いについての後悔は微塵もない。
それは紛れもなく純愛であったからではないかと思える。
それが証拠にどんな人も、どんな出来事も、どんな言葉も、どんな誹謗中傷もその無垢の思い出を汚し、傷つけることができないからだ。

「野菊の墓」という伊藤佐千夫の小説があるが、これを読むと主人公の心象とヒロインの心情がよく理解できる。
当初は性的関係の絡まない男女の純愛というものがこの世に存することができるのか・・・と強い疑問を持っていたがこの小説と自らの心の体験を通して近頃は「これは絶対的にあり得る」とあらためて実感している。

大ヒットしたダブル不倫のアメリカ映画「恋に落ちて」も物語を詳しく観ると肉体関係はないのである。
男女の恋愛関係がその性的関係をもってしてその関係性が汚されるとは思えないが、それでも性交渉なしの方が愛を純化させるように見えるのは何故なのだろう。

少なくとも純愛の方がその愛に倦怠とか衰退とか他からの侵害というものが生じ得ないような気がする。
ごくごく内面的で密やかなものであるからである。
それこそ純粋に精神的(プラトニック)なものだからである。

見返りを求めない無償の愛、自分の生命を犠牲にしても貫きとおしたいというほどの愛に勝てるモノがあるのだろうか。
それに近い愛を受け取った、また感じ取り,自身でもそれを自覚した時の喜びはその人の喪失の悲しみに打ち克つわけではないけれど、時間の経過と共に生きていく「よりどころ」としての実感を充分に感じさせてくれてはいる。

純愛というとやはり若い人のものと思われるが、果たしてそうと言い切れるであろうか。
たぎり切った熱い欲望の塊と化した若人に純愛の入り込む隙間はあるのだろうか。
多くそれは一種の狂乱状態なのではないかと思える。
性欲、愛欲、嫉妬、孤独感、寂寥感、打算、計算、駆け引き・・・さまざまのどちらかというとギラギラとした剥き出しの欲望、感情のせめぎ合いで発作的、衝動的に「愛」という美名のついた激しい欲望とそれに惑わされて生じた混濁した意識によって自分と相手と周囲の妥協的な取り繕いの為に愛の結実とカン違いされている結婚に至るのである。

純愛と結婚は基本的に無関係である。
むしろ愛を期待しないことが良好な結婚生活を送る秘訣なのではないだろうか。

春夏の花々が枯れて行き、秋の気配の漂うお盆前の午後、ツラツラと自らの過去の親子愛、夫婦愛を含め愛の遍歴を思う時、もしかして永遠の愛というものが、それも男女の間の純愛というものが認識され、美しい記憶として個人の脳裏にとどめおかれる為には生命という代償を払わなければならないのかも知れない。
少なくとも多くの小説や映画で表現されている物語は殆んど全てそのような形式を取っている。
即ち愛する人を殺さなければ(自殺、他殺、病死、事故、災害を問わずである)純愛は自覚できないか・・・或いは純粋な「片思い」にこそ純愛の形が存しているのではないかと思える。

悲恋、悲劇、未達の恋にこそ純愛の種が埋まっているのだ。
そうしてそれらは普通、当人同士はモチロン周囲の人々が誰も気づかないほど深く静かに進展し、人知れず成熟していき、突然の「死」によって鮮明にそれと気付かされて当人と周囲の人々を驚嘆させるのである。
その愛の思い出が、それにまつわるあらゆる記憶の断片がいかに尊く、清らかで、精神的に価値の高いものであったことに、気づかされて残された人々の心にとどめられるのだ。

ありがとうございました
M田朋玖



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